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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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第31話 船舶日記

 灯は作業台の前に座り、刷り上がった紙の束を引き寄せた。インクを乾かし、断裁し、束ねる。仕事の大半は、地道な手作業の積み重ねだった。

 刷られた文字に触れると、紙の奥へ沈んだ活字の凹みが指先に伝わってくる。揃えた束を窓のほうへ向けると、断面が光を受けて、細く明るく光った。

 その束を、薄い紙でひとつずつ包んでいく。紙を当てて端を折り、角をきっちり立てる。包み終えたものを台の上に並べていくあいだ、向かいでは湊が同じ作業をしていた。互いの手元だけが動いて、しばらく言葉はなかった。

 やがて湊が、灯の包んだ一つを手に取り、角を指で押す。

「角、甘い」

「えー」

 灯は湊から包みを取り返して、もう一度きつく折り直した。湊のものと並べると、確かに、湊の包みのほうが角が立っている。

 神様は、愛想と引き換えに、湊に手先の器用さを与えたのだと灯は思いながら、次の一束へ取りかかった。

 包み終えた束を棚へ戻したあと、灯は鞄の中の自分の名刺入れを手に取った。開くと、思っていたよりも残りが少ない。

「湊さん、私の名刺お願いできますか」

「もう?」

「なくなりそうです」

「営業しすぎ」

「だって、まだ渡したい人たちがいるので」

 湊は紙を包む手を止めた。数秒、灯を見る。それから短く息を吐いて、また視線を手元へ落とした。

「無理は禁物」

 灯は笑って頷き、立ち上がる。

「てことで、営業行ってきます。自転車の鍵、貸してください」

「また俺ので行くのかよ」

 ぼやきながら、湊は作業着のポケットから鍵を差し出した。灯の手のひらに鍵が落ちる。キーホルダーも何も無いその鍵は、持ち主の体温をぬるく帯びていた。

           *

 その日の午後、灯は湊と並んで、刷り上がったばかりの式典の案内状を点検していた。インクの乾き具合を確かめ、文字のずれやかすれがないかを、一枚ずつ目で追っていく。窓の外はよく晴れている。午前と同じく、やはり地道な作業に、二人とも黙り込んでいる。

 その時、ガランガラン、と入口の大きなベルが鳴った。灯は思わず肩を跳ねさせる。ここに戻って一年になるのに、この音だけはいまだに慣れなかった。

「あの、すみません……」

 暖簾の向こうから、遠慮がちな声がした。灯は急いで席を立ち、暖簾をくぐる。

 入口には女性が立っていた。歳は灯より幾つか上だろうか。淡い桃色のワンピースに、耳の下で緩く結われた髪。手に提げた鞄も、どこか品がある。インクの匂いと紙の屑にまみれた印刷所の中で、その人だけが、別の場所から迷い込んできたように見えた。灯は自分のインクのはねたエプロンを、一瞬だけ意識する。

「こんにちは」

「こちらで、活版印刷をされていると伺って」

 その人は、店の奥をうかがうように、少し首を傾けた。暖簾の下からわずかに見える作業場を、珍しそうに見ている。

「はい。何か、お作りになりたいものがありますか」

 女性が口を開きかけたとき、奥から湊が出てきた。来客に気づいて、軽く会釈する。女性も、少し遅れて頭を下げた。

 その目が、一瞬だけ湊の上にとどまったのを、灯は見ていた。

「よかったら、こちらへ」

 灯は応接机へ案内した。女性が腰を下ろすのを待って、向かいに座る。湊も、灯の隣に腰かけた。

 灯は名刺を取り出して、机の上を滑らせるように差し出した。

「水瀬灯と申します」

 湊も続く。

「佐伯です」

 女性が、目を見開いた。

「何か」

 湊が訊くと、女性は我に返ったように首を振る。

「あ、いえ。……藤本香代と申します」

 それから、膝の上の鞄に手を入れた。少しためらうように間を置いて、一冊の古びたノートを取り出す。表紙の角は擦り切れ、紙は日に焼けて茶色く変わっていた。香代はそれを、両手で大切そうに、机の上へ置いた。

「これを、本にしていただきたいんです」

 灯はノートに目を落とした。香代は、表紙にそっと手を添える。航海日誌、と書かれている。

「父の日記なんです。船乗りでしたので、航海日誌のつもりだったみたいですが。読んでみると、日誌というよりただの日記で」

 香代は肩をすくめて笑った。

「家族のこと、その日あったこととか、色々書いてあって」

 灯は日記をめくる許しを得て、最初のページを開いた。罫線をまたぐように、力のこもった字が並んでいる。

 いつのまにか、誠一が湯呑みを三つ、盆に載せて運んできていた。香代の前に一つ、それから灯と湊の前にも置いていく。玄米茶の香りが、机の上にひろがった。香代が小さく頭を下げると、誠一はまた自分の机のほうへ戻っていく。

「父は、いつかこの記録を、活版印刷で残したいと書いていました」

 香代の手が日記を閉じる。

「でも、それは叶わなかった。私が三歳の頃、航海に出たきり戻らなかったので」

 灯は顔を上げた。香代は悲しげというより、もう長いことその事実とともに生きてきた人の顔をしていた。

「第五昌運丸」

 湊がぽつりとつぶやいた。表紙に書かれた航海日誌という文字の、その下を見ている。

 ——第五昌運丸。

 香代が頷く。

「私の父の乗っていた船です」

 灯は湊を見た。黙り込んだ横顔に、いつもとは違う強張りがある。その船が湊にとって何なのか、目の前のこの人とどう繋がるのか。問いかけることもできずに、灯はただ二人を見比べた。

「自分の父親の船と、同じです」

 湊が言った。日記に目を落としたまま、香代のほうは見なかった。

 灯は息を止めた。

 香代は、湊とその手元の日記を交互に見た。

「父と同じ船に……。そんなこと、あるんですね」

 香代は、膝の上で両手を握り合わせている。驚きのほかに、うまく言葉にならないものがその表情を横切っていく。湊は何も言わずに、ノートを見つめていた。

 香代が、はっとしたように身を乗り出した。

「あの、もしかして」

 ノートを引き寄せ、慣れた手つきでページをめくる。あるところで指を止めて、こちらへ向けた。

「佐伯さんという方が、日記の中で何度も出てくるんです。お名刺をいただいたとき、それで反応してしまって」

 灯はそのページを覗き込んだ。力のこもった字で、佐伯、という名前が確かに記されている。湊もその一行に目を落とした。 

 しばらくの沈黙のあと、香代は自分を落ち着けるように、ゆっくりと息をついた。

「私、普段は東京にいるんです。こっちに帰ってきたのは、小学生の頃に引っ越して以来で。母が人生の最後は地元の施設で暮らしたいと話したものですから、私も入居の付き添いで、しばらくこっちに」

「そうなんですね」

 灯は静かに頷いた。香代は笑って、それから思い出したように二人を見た。

「父と同じ船ということは……佐伯さんは、こちらがご地元ですか。水瀬さんも」

 湊は何も言わずに頷く。灯が言った。

「私も地元はここです。一年前までは東京で暮らしてたんですけど」

「そうだったんですか」

 香代は、机の上の名刺へ目を落とした。

「コピーライターなんですね」

「はい。広告の会社にいました」

「どうして、帰ってこようと」

「向こうでちょっと疲れた時に、しばらくここで過ごしてたら、虜になってしまって」

 灯は笑って続けた。

「ここでなら、言葉を受け取る人の顔が見える。言葉を形にして届けられる実感があります。画面の中だと、それはなかなか難しいので」

「いい仕事ですね」

 香代が、しみじみと言った。

「私にはそんなふうに思える仕事が、まだなくて。もう三十四になる年なのに。少し羨ましいです」

 灯は、机の上の日記へ目をやった。

「でも、活版印刷で日記を記録しようなんて。お父様、粋な方ですね」

「それが、佐伯さんがきっかけだったみたいで」

 香代は、ノートをそっと撫でた。

「佐伯さんが持っていた、港のカフェのカード。それを見せてもらって、活版で刷られたいい紙だったって、父が書いているんです。その手触りに惹かれて、いつか自分の記録もこういう形で残したいと」

 灯は、湊と目を合わせた。湊も、同じものを思い浮かべている顔だった。港の近くの、小さな店。扉を開けると鳴る、あのベル。灯が言った。

「…もしかしたらなんですけど。そのカードのカフェ、心当たりがあります」

           *

「それはまた、すごい偶然だね」

 高瀬がそう口にするまでに、長い沈黙があった。話を聞き終えてからも言葉を探すように黙っていて、それからようやくそう言って、小さく息をついたのだった。

 香代が来た日の夕方、三人は風待ちにいた。いつものカウンターではなく、窓際のテーブル。灯と湊が並んで腰かけ、その向かいに香代が座っている。

「じゃあ、お父さんは、うちのカードを見て」

「おそらく」と香代が頷く。

「佐伯さんという方からいただいた、と書いてありました」

 高瀬は、しばらく考えるように宙を見た。

「佐伯さん。湊くんのお父さんは、昔、よくここに来てくれてたからね。もしかしたら、その時に渡したうちのカードかもしれないね」

 灯は隣の湊を見た。湊も一瞬、灯へ目を向ける。それから何も言わずに、カフェオレを一口飲んだ。

 高瀬はカウンターの隅の小さなカード立てから、一枚のカードを抜き取る。

「これと、同じものかな」

 香代は目の前に置かれたカードを、そっと両手で持ち上げる。指先で、文字の凹みをなぞった。

「父が見たのと、同じ……」

 その声は、少し掠れていた。

 やがて顔を上げると、香代は向かいの湊へ目を向けた。

「なんだか不思議です。父の日記をたどってきたら、お父様が同じ船に乗られてた、佐伯さんがいて。こうして、父が持ったのと同じ紙を私が持っている」

 香代は、カードをそっと胸の前で持ち直した。

「私たち、両親が繋いでくれたのかもしれませんね」

 香代の視線が湊だけに向いているのを見て、灯は笑って頷いた。

「そうかもしれませんね」

 絞り出した自分の声が思ったより平らだったことに気づいて、灯は誤魔化すようにカップに口をつけた。

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