第30話 ノート
「湊くんは、カフェオレかな」
カウンターの向こうで、高瀬が言う。湊は頷いた。
「灯ちゃんは、今日はどっちにする?」
「カフェオレにします」
「真似すんな」
湊が横目で灯を見る。隣に座った灯が、湊の足を軽く蹴った。
「元はと言えば、湊さんが勧めたんでしょう」
「勧めてない」
「飲んでみろって言いました」
やがて高瀬が、二つのカフェオレと水をカウンターに置く。湊と灯を交互に見て、可笑しそうに笑った。灯はふんと横を向く。湊は何も言わず、カップを口へ運んだ。
仕事終わりに、カフェ風待ちに灯と通うようになってから、一年が経とうとしていた。父親の存在が俺の中で形を帯びるようになったのは、あの命名書と、高瀬さんの思い出話がきっかけだった。刷れて良かったと思う。ここに来れて良かったとも思っている。感謝している。半ば強引に俺を連れ出した、灯にも。
「そうだ、高瀬さん。このノート、見てください」
灯が鞄から一冊のノートを取り出して、表紙を高瀬へ向けた。
「あ、これ」
高瀬が手を止める。淡い黄色の表紙には、灯台と港の絵が、グレーのインクで刷られている。
「はい。高瀬さんにいただいた絵です」
カフェ風待ちには、高瀬の描いた街の風景画が何枚も飾られている。いつだったか、灯がそれらの絵に感動するので、高瀬がその場で鉛筆画を描いて、持たせてくれたものだった。
「かっこいいなぁ。俺の落書きも、活版になると」
灯は表紙を撫でて、にっと笑う。
「湊さんが作ってくれました」
「へぇ。優しいね、湊くん」
湊は、高瀬へ小さく首を振った。
高瀬さん、俺はこいつの賄賂に応じただけです。南風の地図と一緒に絵を樹脂版にあげたのも、それをノートの表紙に刷ったのも、賄賂に過ぎません。
灯の手元に目をやる。灯の手で開かれた最初のページには、もう、いくつもの言葉が書き込まれていた。短い言葉。途中で消した跡。ページを横断する矢印。コピーの種だろう。高瀬も、それを覗き込んで言った。
「最近どう。コピーライター、だっけ」
「おかげさまで。何件か依頼をいただきました」
パチパチと手を叩きながら、高瀬が微笑む。
「ありがたいねえ、灯ちゃんがこっちの街を選んでくれて」
高瀬はグラスを手に取って続けた。
「最近よく聞くんだよ、灯ちゃんの名前」
灯は肩をすくめてはにかんだ。
「たまたまですよ」
「いやちがうちがう。湊くんもそう思うでしょ」
高瀬の視線を受けて、湊はカップから口を離した。
「最初は、どうなることかと思ったけど。……依頼の幅が広がりました」
灯が顔を上げる。
「たまたまじゃないだろ」
その湊の言葉に、高瀬は何度も頷きながら言った。
「そういうことだね」
灯を見ると、目を見開いてこっちを見ている。意外だとでも言いたいのか。でもあいにく、正直な言葉だった。
去年の夏。名刺の依頼書を手に、灯は戻ってきた。肩書きの欄を見て目を丸くした俺に、灯は言った。——帰ってきちゃいました。でも、コピーライターも続けます——
前の年の夏よりも力の抜けた笑顔が、そこにあった。
灯は、気になったことをすぐに聞く。活字のことも、土地のことも、依頼人のことも。それでいて、踏み込みすぎない。聞きどきと引きどきを、心得ているようだった。前の仕事で身についたものなのかもしれない。何より、灯は内面の喜びや楽しさを、そのまま顔に出す。ノートを渡した時の、あの顔だ。たいていの人はつられて口元をゆるめる。灯が営業に周り、街の人と打ち解けるのと比例して、印刷所の依頼は、新たな客層にも少しずつ広がりを見せていた。灯は、ここに逃げてきたわけじゃない。
ただ、社長も俺も、あの夏を知っている。灯の性格は、周りを照らすのは得意な反面、自分の傷には疎い。肝心な時は黙り込む。普段は、人のことを好き勝手使うくせに。
高瀬は新しい客の注文を受けに行き、二人の前には、湯気だけが立っていた。
帰り際。入口の脇に置かれた小さな紙へ、湊の目が留まる。
活版で刷ったショップカード。残りはもう数枚しかない。
あれを刷ったのは二年前だ。それから、刷り増しの注文は来ていない。
ふと、隣を見る。灯もカード立てを見ていた。目が合ったが、どちらも何も言わなかった。
「どうかした?」
高瀬がカウンターの向こうから声をかける。湊はカードから目を逸らした。
「いえ」
それだけ答えて、立ち上がる。
扉を押す。外へ出ると、潮の匂いがした。
灯が一度だけ店を振り返る。湊はそれを横目に、歩き出した。




