第29話 潮待ち
その春、佐伯湊は三十一になった。
淹れたばかりのカフェオレを一口飲み、手の当たらない位置に移動させてから、立ち上がる。活字を一つ、棚から抜く。文選箱へ置く。指先で向きを揃え、組版台の上で行に組み付けていく。込め物を差し込み、罫を渡す。台の奥では、活版機が油の匂いを放って黙り込んでいる。鉄の塊のような機械だった。繊細な活字と、武骨な機械。その取り合わせが、湊は案外好きだった。大学の専攻とも相性が良かったのだと思う。
もっとも、初めから活版に惹かれていたわけではない。手を動かしているうちに、誠一のそばで一つずつ覚えているうちに、気づけば手放せなくなっていた。
窓から入る昼の光が、組版台の上へ斜めに落ちている。
誠一は窓を拭いている。乾いた布で桟の埃を払い、ガラスの曇りを取っていく。窓の木枠がカタンカタンと鳴り、硝子の音が時々混じる。拭かれた窓の向こうで、春先の川がぬるい光を返している。
二人とも、何も言わない。湊は活字を組み、誠一は窓を拭く。秒針の音と、活字の触れ合う音と、布の擦れる音が、事務所に流れていた。
その静けさの中へ、弾むような声が響いている。
湊は手を止めた。
組版台に活字を置き、ピンセットを置く。作業着で指を拭いながら立ち上がり、暖簾のほうへ歩き出した。
「湊さー、あっ」
湊が暖簾に手をかける前に顔を出したのは、その声の主だった。湊の姿を認めて、水瀬灯の顔がぱっと明るくなる。
その表情の変化に、湊は思わず息を漏らして、灯に続いて暖簾をわけた。
「あら、佐伯さん。どうも」
応接机にいたのは、宿 南風の女将だった。
湊を見て、女将は気さくに会釈する。日に焼けた肌に、大ぶりの耳飾り。鮮やかな青いワンピースが、しんとした客間でよく目立っていた。
「地図を入れたいんですけど」
女将が机に広げた紙を指す。
「これも、活版で刷れたりします?」
湊は机の前に立ち、その紙を見た。宿案内の原稿だった。宿のコンセプト、サービス内容に続いて、右端には宿の周りの店や浜への道のりが記されている。
「刷れますよ」
湊が言うと、女将の顔がぱっと晴れた。その隣で、灯も肩の力を抜いて笑っている。
「よかった。楽しみにしてますね」
女将は両手を合わせて、それじゃあ、と立ち上がった。戸に手をかけ、灯に手を振りながら帰っていく。
大きなベルの余韻が消える頃、湊は組版台へ戻った。少し遅れて灯も暖簾をくぐってきた。原稿を握ったまま、黒板の前で立ち止まる。チョークを手に取り、空いた行へ文字を書き足している。
『南風 宿案内』
よく整った白い文字が黒板を滑る。その上には、先に受けた依頼が並んでいた。名刺、ショップカード、式典の案内状、礼状。刷り上がれば、一つずつ消していく。
「灯のコピーも、上々みたいだな」
誠一が、窓を拭く手を止めて言った。応対のあいだ、女将が灯に言っていた。「あの和菓子屋のコピー、書いたの灯ちゃんなんですってね。すごく素敵だと思っていた」と。組版をする湊の耳にも聞こえていたが、誠一も窓を拭きながら聞いていたらしい。
「あ、聞こえてたんだ」
「壁が薄いからな」
誠一はそれだけ言って、また窓へ向き直る。
「元、取れたな」
湊が言うと、灯が振り返った。
「何の話ですか」
「和菓子」
灯が打合せに行くたびに手に下げて帰ってきた紙袋を思って、湊は口の端を片側だけ上げた。灯は眉を寄せている。湊の胸に、灯の持った原稿が押しつけられる。湊はそれを受け取って、紙へ目を走らせた。
「地図は、樹脂版にあげるから」
「はい。その他は拾いますか?」
湊が頷いた。
「南風は初号、他は四号で」
「はい」
湊が原稿を手渡すと、灯は活字棚へ向かう。湊は作業台へ戻った。
「潮待ち、って言葉があるんですって」
棚の前で活字を拾いながら、灯が言う。
「風待ちはほら、知ってましたけど」
あの夏とは比べようがないほど、棚の前を動く灯の足は、迷いがなかった。
「ここの港、浅瀬じゃないですか。満潮にならないと大きめの船は出せないし、戻るのも同じだそうで。船を押す風を待つのが風待ちで、潮を待つのが潮待ち」
「ふうん」
「南風さんのコンセプトに入ってるんですよ。風待ち、潮待ちの宿。なんか素敵ですよね」
「うん」
灯の足音が止まる。
「聞いてます?」
湊は顔を上げる。眉を寄せた灯と目が合った。
「聞いてます」
湊が言うと、灯は湊の手元へ視線を落とし、それから笑った。
数日前の湊の誕生日。灯から「カフェオレ用に」と渡されたのは、地元の窯元で作られた陶器のマグカップだった。湊が礼を言うと、灯は「じゃあお礼に活版のノートが欲しい」と言い出したのだった。このマグカップは、どうやら単なる誕生日プレゼントではないらしい。いわゆる、灯なりの賄賂だろう。……こいつ。
湊は何も言わなかった。灯も、笑みを浮かべたまま棚へ向き直る。
組版台の脇には、二枚の紙が並んでいる。一枚は南風の宿の地図。もう一枚は、別の絵。湊はその二枚を手に取り、樹脂版にあげる支度を始めた。




