表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
PR
29/40

第29話 潮待ち

 その春、佐伯湊(さえきみなと)は三十一になった。

 淹れたばかりのカフェオレを一口飲み、手の当たらない位置に移動させてから、立ち上がる。活字を一つ、棚から抜く。文選箱へ置く。指先で向きを揃え、組版台の上で行に組み付けていく。込め物を差し込み、罫を渡す。台の奥では、活版機が油の匂いを放って黙り込んでいる。鉄の塊のような機械だった。繊細な活字と、武骨な機械。その取り合わせが、湊は案外好きだった。大学の専攻とも相性が良かったのだと思う。

 もっとも、初めから活版に惹かれていたわけではない。手を動かしているうちに、誠一のそばで一つずつ覚えているうちに、気づけば手放せなくなっていた。

 窓から入る昼の光が、組版台の上へ斜めに落ちている。

 誠一は窓を拭いている。乾いた布で桟の埃を払い、ガラスの曇りを取っていく。窓の木枠がカタンカタンと鳴り、硝子の音が時々混じる。拭かれた窓の向こうで、春先の川がぬるい光を返している。

 二人とも、何も言わない。湊は活字を組み、誠一は窓を拭く。秒針の音と、活字の触れ合う音と、布の擦れる音が、事務所に流れていた。

 その静けさの中へ、弾むような声が響いている。

 湊は手を止めた。

 組版台に活字を置き、ピンセットを置く。作業着で指を拭いながら立ち上がり、暖簾のほうへ歩き出した。

「湊さー、あっ」

 湊が暖簾に手をかける前に顔を出したのは、その声の主だった。湊の姿を認めて、水瀬灯(みずせあかり)の顔がぱっと明るくなる。

 その表情の変化に、湊は思わず息を漏らして、灯に続いて暖簾をわけた。

「あら、佐伯さん。どうも」

 応接机にいたのは、宿 南風(やど はいや)の女将だった。

 湊を見て、女将は気さくに会釈する。日に焼けた肌に、大ぶりの耳飾り。鮮やかな青いワンピースが、しんとした客間でよく目立っていた。

「地図を入れたいんですけど」

 女将が机に広げた紙を指す。

「これも、活版で刷れたりします?」

 湊は机の前に立ち、その紙を見た。宿案内の原稿だった。宿のコンセプト、サービス内容に続いて、右端には宿の周りの店や浜への道のりが記されている。

「刷れますよ」

 湊が言うと、女将の顔がぱっと晴れた。その隣で、灯も肩の力を抜いて笑っている。

「よかった。楽しみにしてますね」

 女将は両手を合わせて、それじゃあ、と立ち上がった。戸に手をかけ、灯に手を振りながら帰っていく。

 大きなベルの余韻が消える頃、湊は組版台へ戻った。少し遅れて灯も暖簾をくぐってきた。原稿を握ったまま、黒板の前で立ち止まる。チョークを手に取り、空いた行へ文字を書き足している。

『南風 宿案内』

 よく整った白い文字が黒板を滑る。その上には、先に受けた依頼が並んでいた。名刺、ショップカード、式典の案内状、礼状。刷り上がれば、一つずつ消していく。

「灯のコピーも、上々みたいだな」

 誠一が、窓を拭く手を止めて言った。応対のあいだ、女将が灯に言っていた。「あの和菓子屋のコピー、書いたの灯ちゃんなんですってね。すごく素敵だと思っていた」と。組版をする湊の耳にも聞こえていたが、誠一も窓を拭きながら聞いていたらしい。

「あ、聞こえてたんだ」

「壁が薄いからな」

 誠一はそれだけ言って、また窓へ向き直る。

「元、取れたな」

 湊が言うと、灯が振り返った。

「何の話ですか」

「和菓子」

 灯が打合せに行くたびに手に下げて帰ってきた紙袋を思って、湊は口の端を片側だけ上げた。灯は眉を寄せている。湊の胸に、灯の持った原稿が押しつけられる。湊はそれを受け取って、紙へ目を走らせた。

「地図は、樹脂版にあげるから」

「はい。その他は拾いますか?」

 湊が頷いた。

「南風は初号、他は四号で」

「はい」

 湊が原稿を手渡すと、灯は活字棚へ向かう。湊は作業台へ戻った。

「潮待ち、って言葉があるんですって」

 棚の前で活字を拾いながら、灯が言う。

「風待ちはほら、知ってましたけど」

 あの夏とは比べようがないほど、棚の前を動く灯の足は、迷いがなかった。

「ここの港、浅瀬じゃないですか。満潮にならないと大きめの船は出せないし、戻るのも同じだそうで。船を押す風を待つのが風待ちで、潮を待つのが潮待ち」

「ふうん」

「南風さんのコンセプトに入ってるんですよ。風待ち、潮待ちの宿。なんか素敵ですよね」

「うん」

 灯の足音が止まる。

「聞いてます?」

 湊は顔を上げる。眉を寄せた灯と目が合った。

「聞いてます」

 湊が言うと、灯は湊の手元へ視線を落とし、それから笑った。

 数日前の湊の誕生日。灯から「カフェオレ用に」と渡されたのは、地元の窯元で作られた陶器のマグカップだった。湊が礼を言うと、灯は「じゃあお礼に活版のノートが欲しい」と言い出したのだった。このマグカップは、どうやら単なる誕生日プレゼントではないらしい。いわゆる、灯なりの賄賂だろう。……こいつ。

 湊は何も言わなかった。灯も、笑みを浮かべたまま棚へ向き直る。

 組版台の脇には、二枚の紙が並んでいる。一枚は南風の宿の地図。もう一枚は、別の絵。湊はその二枚を手に取り、樹脂版にあげる支度を始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ