第27話 東京
名刺は百枚あった。
最初の一枚を出したのは、復職してから三日目だった。取引先との打ち合わせだった。名刺入れを開く。活版の凹みが指先に触れる。受け取った相手が、少し目を細めた。
「珍しいですね」
そう言った。灯は「はい」と答えた。
名刺は少しずつ減っていった。打ち合わせのたびに。人と出会うたびに。一枚ずつ。活版の凹みを確かめてから渡す習慣が、いつの間にかついていた。
仕事は変わっていなかった。数字を見る。クリック率を見る。コンバージョンを見る。それは同じだった。けれど言葉を書く時、いつも浮かべるのは、あの小さな活字と、それを組む繊細な指先だった。
名刺が残り三十枚になった頃。
小さな会社の、小さな製品だった。担当者から資料を受け取り、灯は取材を申し込んだ。作った人に会いに行った。なぜこれを作ったのかを聞いた。その人の話を、灯はメモを取りながら聞いた。メモを取る必要がないくらい、覚えていたけれど。
書き上げた灯のコピーは、A/Bテストで負けた。数字の良い別のバージョンに差し替えられた。あの時と同じだった。
納品から数日後、廊下で担当者に呼び止められた。
「あのコピー」
灯は立ち止まる。
「採用できなくて、すみませんでした」
担当者は少し困ったような顔をしていた。
「でも、ずっと頭に残ってて」
それだけだった。廊下の話はそれで終わった。
その夜、灯は便箋を出した。ボールペンを持つ。書き終えると、引き出しへしまった。送らなかった。それでも書いた。
便箋の上には、朝倉活版印刷所という宛名だけが残っていた。
名刺が残り数枚になった頃、灯は思った。
使い切ったら、また作ればいい。どこで作るかは、もう決まっていた。




