表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
PR
22/40

第22話 引き潮

 命名書が完成した日の夕方、誠一と灯だけが事務所に残った。

 湊は紙の在庫整理のために二階へ上がっていた。時々紙の束を動かす音が、階段の上から聞こえていた。

 誠一は窓辺の机に座っていた。湯呑みを持っている。玄米茶の湯気が細く立っている。灯は事務用の机に座ったまま、何も言わなかった。誠一も、湯呑みを手にしたまま動かない。

 窓の外では、夕方の光が、引いた川の僅かな水面を橙色に染めている。

 誠一が湯呑みを置いた。その音が客間に小さく響いて、消えた。

 灯は窓の外を見る。三十年前も同じ川が流れていた。誠一はその川のそばで印刷所を続けてきた。断った依頼のことを抱えたまま。

「じいちゃん」

 誠一が顔を上げる。灯は窓の外へ視線を戻す。

「ここに来てよかった」

 誠一は何も言わない。湯呑みを持ち上げる。一口飲む。それから小さく頷いた。

 しばらくして、二階から足音が下りてきた。湊は紙の束を抱えていた。それを棚へ置き、作業台の前に立つ。何かをするわけではない。ただ、そこに立っていた。

 


 

 依頼が重なった週の終わりだった。

 誠一は早めに上がっていた。灯は帳簿を整理していたが、手が止まった。

 ふと顔を上げる。

 湊の横顔が見えた。作業台の引き出しを開け閉めしている。何かを探しているのではなく、明日の準備をしているようだった。その動作に迷いがない。棚の前に立つ時も、活字を拾う時も、版を組む時も、いつもそうだった。この場所を知り尽くしている人の動き方だった。

 印刷所へ来た頃、湊の動きが何を意味しているのか分からなかった。なぜあの順番で棚を見るのか。なぜそこに手を伸ばすのか。ただ速くて正確な動きに見えていた。けれど今は少し違う。引き出しを開ける前に指先が止まる一瞬。版を確かめる時の視線の動き方。そういう細かいことが、少しずつ分かるようになっていた。

 湊が振り返る。灯と目が合う。

「まだいるの」

「帳簿、終わってなかったので」

 湊は特に何も言わず、また棚へ向き直った。

 灯も帳簿へ目を落とす。数字を追う。けれど少しして、また顔を上げていた。

 窓の外では川が光っている。夕方の光が水面を橙色に染め始めていた。川底の石は見えない。今日の潮は満ちている。

 湊が作業台の引き出しを閉める音がした。片付けが終わったらしい。灯は帳簿を閉じた。

 二人で裏口から出る。夕方の商店街を並んで歩く。いつもの帰り道だった。

 角を曲がるところで湊が立ち止まった。

「あっちだよな」

 灯の帰る方向を顎で示す。

「はい」

 湊は頷いて、「じゃあ」と反対側へ歩き出す。灯はその背中を見ていた。

 夕方の光の中で、湊の影が伸びている。

 灯は、その場に立ったままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ