第22話 引き潮
命名書が完成した日の夕方、誠一と灯だけが事務所に残った。
湊は紙の在庫整理のために二階へ上がっていた。時々紙の束を動かす音が、階段の上から聞こえていた。
誠一は窓辺の机に座っていた。湯呑みを持っている。玄米茶の湯気が細く立っている。灯は事務用の机に座ったまま、何も言わなかった。誠一も、湯呑みを手にしたまま動かない。
窓の外では、夕方の光が、引いた川の僅かな水面を橙色に染めている。
誠一が湯呑みを置いた。その音が客間に小さく響いて、消えた。
灯は窓の外を見る。三十年前も同じ川が流れていた。誠一はその川のそばで印刷所を続けてきた。断った依頼のことを抱えたまま。
「じいちゃん」
誠一が顔を上げる。灯は窓の外へ視線を戻す。
「ここに来てよかった」
誠一は何も言わない。湯呑みを持ち上げる。一口飲む。それから小さく頷いた。
しばらくして、二階から足音が下りてきた。湊は紙の束を抱えていた。それを棚へ置き、作業台の前に立つ。何かをするわけではない。ただ、そこに立っていた。
影
依頼が重なった週の終わりだった。
誠一は早めに上がっていた。灯は帳簿を整理していたが、手が止まった。
ふと顔を上げる。
湊の横顔が見えた。作業台の引き出しを開け閉めしている。何かを探しているのではなく、明日の準備をしているようだった。その動作に迷いがない。棚の前に立つ時も、活字を拾う時も、版を組む時も、いつもそうだった。この場所を知り尽くしている人の動き方だった。
印刷所へ来た頃、湊の動きが何を意味しているのか分からなかった。なぜあの順番で棚を見るのか。なぜそこに手を伸ばすのか。ただ速くて正確な動きに見えていた。けれど今は少し違う。引き出しを開ける前に指先が止まる一瞬。版を確かめる時の視線の動き方。そういう細かいことが、少しずつ分かるようになっていた。
湊が振り返る。灯と目が合う。
「まだいるの」
「帳簿、終わってなかったので」
湊は特に何も言わず、また棚へ向き直った。
灯も帳簿へ目を落とす。数字を追う。けれど少しして、また顔を上げていた。
窓の外では川が光っている。夕方の光が水面を橙色に染め始めていた。川底の石は見えない。今日の潮は満ちている。
湊が作業台の引き出しを閉める音がした。片付けが終わったらしい。灯は帳簿を閉じた。
二人で裏口から出る。夕方の商店街を並んで歩く。いつもの帰り道だった。
角を曲がるところで湊が立ち止まった。
「あっちだよな」
灯の帰る方向を顎で示す。
「はい」
湊は頷いて、「じゃあ」と反対側へ歩き出す。灯はその背中を見ていた。
夕方の光の中で、湊の影が伸びている。
灯は、その場に立ったままだった。




