第21話 残る三文字
階段が鳴った。ゆっくりとした足音が一段ずつ上がってくる。灯は依頼書を持ったまま振り返る。
誠一だった。
「じいちゃん」
灯は手元の紙を差し出した。誠一は依頼書を受け取る。何気ない動作だった。けれど、依頼書へ目を落とした瞬間、動きが止まった。小さな窓から差し込む光と、古い紙の匂いと、棚に積まれた紙束だけがある。誠一は何も言わない。依頼書を見たまま立っている。灯も声を掛けなかった。
やがて誠一が息を吐き、依頼書を閉じた。
「玄米茶、飲むか」
それだけ言って、階段へ向かった。
*
灯は急須を取り出し、湯呑みを二つ並べて湯を注いだ。玄米茶の香りが広がる。それからカフェオレを作り、マグカップを持って活字棚へ向かう。湊は文選をしていた。文選箱には活字が少しずつ並んでいる。
「どうぞ」
湊は顔を上げ、マグカップを受け取った。
「ありがとう」
灯は頷いて自分の席へ戻る。誠一はもう椅子に座っていた。依頼書は机の上に置かれている。灯も腰を下ろし、湯呑みを持ち上げた。
その時だった。
「三十年前だ」
誠一が言った。灯は顔を上げる。誠一は依頼書を見ていた。遠いものを見るみたいに。
活字の触れ合う音が止まる。
「若い男が来た」
誠一は続けた。玄米茶を一口飲む。
「命名書を作ってほしいってな」
窓の外で、船の汽笛が小さく鳴った。
「翌日には船が出るって言ってた。子どもはまだ生まれてなかった。写真もない」
誠一は依頼書へ目を落とす。少し間が空く。
「だから。名前だけでも持って行きたい」
時計の音が聞こえる。誰も話さない。しばらくして、誠一が言った。
「その子どもの名前がな」
依頼書の一行を見る。
「佐伯湊」
活字棚の方から、小さく金属の触れる音がした。それきり、また静かになった。
誠一は依頼書を閉じる。
「俺はその依頼を断った」
灯は思わず口を開く。
「なんで……」
「当時は忙しかった。機械も人も空いてなかった」
「でも」
灯の声に、誠一は少し笑った。
「そうだな」
窓の外へ目を向ける。川が流れている。
「違うやり方もあったと思う。手刷りでも良かった」
玄米茶の湯気が揺れる。
「たった三文字だった」
誰も何も言わなかった。窓の外では川が流れている。古時計の針が進む音だけが聞こえた。
やがて、誠一が静かに口を開く。
「その後、港で噂を聞いた」
玄米茶を一口飲む。
「数日前に出た船と連絡が取れんらしいってな」
古時計が、小さく音を立てた。
それだけだった。誰も続きを聞かなかった。
「それからだ」
静かな声だった。
「どんな依頼も断らんと決めたのは」
長い沈黙が落ちる。活字棚の方からは、もう音がしない。灯はそっと顔を上げた。湊は作業台の前に立っていた。文選箱を持ったまま、何も言わずに。
灯が口を開いた。
「ジョバンニは」
湊が顔を上げる。
「お父さんに会えないままだったら、何を知りたかったと思いますか」
誰も答えない。古時計の音だけが響く。湊は灯を見ていた。それから、ゆっくり視線を落とす。誠一の机の上の依頼書へ。
床が鳴る。ギシ。ギシ。湊の足音が依頼書の前で止まった。古い紙を見つめる。依頼書を持ち上げた。
「社長」
誠一が顔を上げる。湊は依頼書を見たままだった。
少し間が空く。窓の外で、船の汽笛が鳴った。
「受けます」
誠一は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
*
湊は依頼書を持ったまま、作業台へ戻った。文選箱を手に取り、依頼書を横へ広げる。それから活字棚へ向かう。棚の前でいつもと同じように立ち、いつもと同じように棚を見た。けれど今日は、手の動きが、いつもより遅かった。
指先がその中の一文字の上で止まり、ピンセットで摘み上げる。チ、と静かな音がした。文選箱へ置く。また棚へ手を伸ばす。もう一文字。チャ。もう一文字。チ。
三文字。
文選箱を持って作業台へ戻り、依頼書の横で活字を並べる。向きを確かめる。もう一度見る。込め物を取り出し、活字の脇へ差し込む。隙間を埋める。反対側にも入れる。版を軽く揺らすと、動かなかった。締め具へ手を伸ばし、少しずつ締める。版を持ち上げ、傾ける。活字が動かないことを確認し、机へ戻した。
版を持ち、手フートへ差し込んで固定する。紙を一枚取り出し、机へ置いて角を揃え、位置を合わせる。インク缶を開け、薄く伸ばす。版の上を転がすと、活字の面だけが黒く光った。紙を置き、指先で位置を整える。
手フートのレバーへ手を掛ける。下ろす。
ガチャン。
短い音が建物の中へ広がり、それから静かになった。レバーを戻す。紙の端だけを持ち、ゆっくり持ち上げる。まだ乾いていない、三文字があった。
誰も何も言わない。誠一が立ち上がり、ゆっくり歩いて湊の机の上の紙を見る。活字の凹み。黒いインク。佐伯湊。
それから、誠一は小さく言った。
「三十年も」
少し間が空く。
「かかってしまったな」
川の音だけが聞こえていた。
湊は何も言わない。机の上の命名書へ視線を落とし、そっと手を伸ばす。親指が、活版の凹みをなぞる。ゆっくり。一文字ずつ。
外の川は引いて、川底の石が白く光っていた。




