第19話 継承
活版機の横。刷り上がった紙が作業台の上に並んでいる。灯はそのうちの一枚を持ち上げた。和紙特有の柔らかな手触り。淡い色で刷られた包装紙だった。活版の凹みは控えめだが、光の角度を変えると確かに分かる。
「いい紙ですね」
灯が言うと、紙を揃えていた湊が顔を上げた。
「社長が選んだやつ」
「へえ」
灯は紙を光にかざす。繊維がうっすら透けて見えた。
前なら気にも留めなかったかもしれない。印刷所へ来た頃は、紙は紙だった。白くて薄くて、文字を乗せるためのもの。けれど今は違う。厚みがあれば活版の凹みがはっきり出る。柔らかければインクの馴染み方が変わる。そのことを、今は手で知っている。
その時、入口ベルが鳴った。
依頼人だった。日に焼けた顔。腕には小さな火傷の跡が残っている。職人の手だと思った。
「こんにちは」
「こんにちは」
誠一が応じる。
依頼人は試し刷りを見るなり、小さく息を吐いた。包装紙を手に取り、そっと指で文字をなぞる。
「いいですね」
その声には、ようやく形になったものを見る実感があった。
灯はその様子を見ていた。包装紙。紙袋。ショップカード。全部これから使われるものだ。
「もうすぐなんですか」
依頼人が顔を上げる。
「はい」
照れたように笑った。
「来月です」
灯もつられて笑う。
「楽しみですね」
「緊張します」
即答だった。今度は依頼人が笑う。
「ずっと働いてた店だったので」
包装紙へ視線を落とす。
「自分の店って言われても、まだ変な感じです」
依頼人はそう言いながら、紙袋の見本を手に取った。活版で刷られた文字を眺める。大切なものを扱うみたいに。
「あの親方さんのお店ですよね」
灯は何気なく尋ねた。依頼人は少しだけ黙った。それから笑う。
「残したかったんですけどね」
依頼人は紙袋を見たまま言った。
「屋号」
静かな声だった。
「子供の頃から好きだった店なので」
窓の外で蝉が鳴いている。扇風機がゆっくり回る。依頼人は少しだけ笑った。
「でも怒られました」
「怒られた?」
依頼人は笑った。困ったような、それでいて嬉しそうな顔で。
「お前の店になるんだから変えろって」
試し刷りの紙をもう一度手に取る。活版の文字を見つめる。まだ少し慣れない名前を見るみたいに。
「何度も言われました」
包装紙の端を指で整える。
「もっと違うもんを引き継いだ」
印刷所の中に、少しだけ静かな時間が流れた。依頼人は紙を見つめている。
その言葉を聞きながら、灯は試し刷りの包装紙を見た。活版の文字。新しい名前は、確かにここにあった。
依頼人が帰ったあと、印刷所には機械の音だけが残った。試し刷りの紙を棚へ戻しながら、灯はもう一度包装紙へ目を向ける。さっきの職人の顔は、何かを捨てた顔ではなかった。何かを受け取った人の顔だった。
*
「休憩にするか」
誠一の声に、灯は顔を上げた。古時計は三時を少し回っている。誠一は玄米茶を淹れ、灯の前にも湯呑みを置く。湊は冷蔵庫から牛乳を出していた。
「またカフェオレですか」
「悪い?」
「いいえ」
灯は笑う。湊は何も言わずに席へ座った。
誠一は川を眺めながら玄米茶を飲む。湊はカフェオレを飲む。灯はその様子を見て、口元を緩めた。
「じいちゃん」
「ん?」
「引退したらここどうするの?」
誠一は湯呑みを置いた。すぐには答えない。川を見たまま言う。
「継いでほしいやつはいるな」
そして、ちらりと湊を見る。湊は顔も上げない。
「またそれですか」
誠一が笑う。灯もつられて笑った。そのやり取りは、何度も繰り返されているらしかった。
灯は湯呑みを持ったまま言った。
「そういえば」
湊が顔を上げる。
「なんで湊さんはここにいるんですか」
沈黙。誠一が少し笑う。湊はしばらく黙っていた。質問の意味を考えているみたいに。
「今更?」
「だって聞いたことなかったので」
「聞かれなかったから」
灯は少し笑う。確かにそうだった。
湊は窓の外へ目を向けた。
「ちょうど就活中」
ぽつりと言う。
「帰省した時に、父親の遺品整理を手伝ってて」
灯は黙って聞く。湊が自分の話をするのは珍しい。
「手帳が出てきた」
カフェオレを一口飲む。
「何かの日付とか、船と港の名前が主だったけど」
そこまで言って、視線を落とした。
「最後のページだけ、丁寧な字だった」
灯は湯呑みを持つ手を止める。
「何て書いてあったんですか」
湊は少しだけ笑った。
「朝倉活版印刷所」
そこで言葉を切る。そして、当たり前のことを言うみたいに続けた。
「その横に、湊」
川の流れる音が聞こえる。誠一は何も言わない。灯も黙っていた。
「それで来たんですか」
「まぁ」
「へえ」
「来てみたら社長がいた」
誠一が笑う。
「お前、活版に興味あるって言ったからな」
「半分は嘘です」
「知っとった」
灯は吹き出した。誠一は楽しそうだった。湊も少しだけ笑っている。
それから、カフェオレを見ながら言った。
「活版印刷自体は知ってたけど」
一口飲む。
「銀河鉄道の夜」
灯は瞬きをする。
「夜寝る前に、母親がよく読んでて」
窓の外で蝉が鳴く。
「ジョバンニが拾うだろ。活字」
そう言って、湊は残っていたカフェオレを飲んだ。休憩の終わりを告げるみたいに。
印刷所には、しばらく川の音だけが流れていた。灯は湯呑みを持ったまま、窓の外を見ていた。銀河鉄道の夜。実家の本棚を浮かべて、玄米茶を飲み干した。
その時、誠一が湯呑みを置いた。何気ない動作だった。けれど灯は、その手に目が止まった。怪我をしていた場所に、包帯がなかった。いつの間にか、外れていた。誠一は何も言わない。灯も何も言わなかった。ただ川を見る。水面が光っている。




