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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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19/40

第19話 継承

 活版機の横。刷り上がった紙が作業台の上に並んでいる。灯はそのうちの一枚を持ち上げた。和紙特有の柔らかな手触り。淡い色で刷られた包装紙だった。活版の凹みは控えめだが、光の角度を変えると確かに分かる。

「いい紙ですね」

 灯が言うと、紙を揃えていた湊が顔を上げた。

「社長が選んだやつ」

「へえ」

 灯は紙を光にかざす。繊維がうっすら透けて見えた。

 前なら気にも留めなかったかもしれない。印刷所へ来た頃は、紙は紙だった。白くて薄くて、文字を乗せるためのもの。けれど今は違う。厚みがあれば活版の凹みがはっきり出る。柔らかければインクの馴染み方が変わる。そのことを、今は手で知っている。

 その時、入口ベルが鳴った。

 依頼人だった。日に焼けた顔。腕には小さな火傷の跡が残っている。職人の手だと思った。

「こんにちは」

「こんにちは」

 誠一が応じる。

 依頼人は試し刷りを見るなり、小さく息を吐いた。包装紙を手に取り、そっと指で文字をなぞる。

「いいですね」

 その声には、ようやく形になったものを見る実感があった。

 灯はその様子を見ていた。包装紙。紙袋。ショップカード。全部これから使われるものだ。

「もうすぐなんですか」

 依頼人が顔を上げる。

「はい」

 照れたように笑った。

「来月です」

 灯もつられて笑う。

「楽しみですね」

「緊張します」

 即答だった。今度は依頼人が笑う。

「ずっと働いてた店だったので」

 包装紙へ視線を落とす。

「自分の店って言われても、まだ変な感じです」

 依頼人はそう言いながら、紙袋の見本を手に取った。活版で刷られた文字を眺める。大切なものを扱うみたいに。

「あの親方さんのお店ですよね」

 灯は何気なく尋ねた。依頼人は少しだけ黙った。それから笑う。

「残したかったんですけどね」

 依頼人は紙袋を見たまま言った。

「屋号」

 静かな声だった。

「子供の頃から好きだった店なので」

 窓の外で蝉が鳴いている。扇風機がゆっくり回る。依頼人は少しだけ笑った。

「でも怒られました」

「怒られた?」

 依頼人は笑った。困ったような、それでいて嬉しそうな顔で。

「お前の店になるんだから変えろって」

 試し刷りの紙をもう一度手に取る。活版の文字を見つめる。まだ少し慣れない名前を見るみたいに。

「何度も言われました」

 包装紙の端を指で整える。

「もっと違うもんを引き継いだ」

 印刷所の中に、少しだけ静かな時間が流れた。依頼人は紙を見つめている。

 その言葉を聞きながら、灯は試し刷りの包装紙を見た。活版の文字。新しい名前は、確かにここにあった。

 依頼人が帰ったあと、印刷所には機械の音だけが残った。試し刷りの紙を棚へ戻しながら、灯はもう一度包装紙へ目を向ける。さっきの職人の顔は、何かを捨てた顔ではなかった。何かを受け取った人の顔だった。

           *

「休憩にするか」

 誠一の声に、灯は顔を上げた。古時計は三時を少し回っている。誠一は玄米茶を淹れ、灯の前にも湯呑みを置く。湊は冷蔵庫から牛乳を出していた。

「またカフェオレですか」

「悪い?」

「いいえ」

 灯は笑う。湊は何も言わずに席へ座った。

 誠一は川を眺めながら玄米茶を飲む。湊はカフェオレを飲む。灯はその様子を見て、口元を緩めた。

「じいちゃん」

「ん?」

「引退したらここどうするの?」

 誠一は湯呑みを置いた。すぐには答えない。川を見たまま言う。

「継いでほしいやつはいるな」

 そして、ちらりと湊を見る。湊は顔も上げない。

「またそれですか」

 誠一が笑う。灯もつられて笑った。そのやり取りは、何度も繰り返されているらしかった。

 灯は湯呑みを持ったまま言った。

「そういえば」

 湊が顔を上げる。

「なんで湊さんはここにいるんですか」

 沈黙。誠一が少し笑う。湊はしばらく黙っていた。質問の意味を考えているみたいに。

「今更?」

「だって聞いたことなかったので」

「聞かれなかったから」

 灯は少し笑う。確かにそうだった。

 湊は窓の外へ目を向けた。

「ちょうど就活中」

 ぽつりと言う。

「帰省した時に、父親の遺品整理を手伝ってて」

 灯は黙って聞く。湊が自分の話をするのは珍しい。

「手帳が出てきた」

 カフェオレを一口飲む。

「何かの日付とか、船と港の名前が主だったけど」

 そこまで言って、視線を落とした。

「最後のページだけ、丁寧な字だった」

 灯は湯呑みを持つ手を止める。

「何て書いてあったんですか」

 湊は少しだけ笑った。

「朝倉活版印刷所」

 そこで言葉を切る。そして、当たり前のことを言うみたいに続けた。

「その横に、湊」

 川の流れる音が聞こえる。誠一は何も言わない。灯も黙っていた。

「それで来たんですか」

「まぁ」

「へえ」

「来てみたら社長がいた」

 誠一が笑う。

「お前、活版に興味あるって言ったからな」

「半分は嘘です」

「知っとった」

 灯は吹き出した。誠一は楽しそうだった。湊も少しだけ笑っている。

 それから、カフェオレを見ながら言った。

「活版印刷自体は知ってたけど」

 一口飲む。

「銀河鉄道の夜」

 灯は瞬きをする。

「夜寝る前に、母親がよく読んでて」

 窓の外で蝉が鳴く。

「ジョバンニが拾うだろ。活字」

 そう言って、湊は残っていたカフェオレを飲んだ。休憩の終わりを告げるみたいに。

 印刷所には、しばらく川の音だけが流れていた。灯は湯呑みを持ったまま、窓の外を見ていた。銀河鉄道の夜。実家の本棚を浮かべて、玄米茶を飲み干した。

 その時、誠一が湯呑みを置いた。何気ない動作だった。けれど灯は、その手に目が止まった。怪我をしていた場所に、包帯がなかった。いつの間にか、外れていた。誠一は何も言わない。灯も何も言わなかった。ただ川を見る。水面が光っている。

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