第18話 メール
夜、実家の居間は静かだった。
母はもう寝ている。台所の電気だけが廊下へ細く漏れていた。灯はソファに座ったまま、膝の上にスマートフォンを置いていた。画面は暗い。
親指で触れると、画面が点灯する。通知が並んでいた。知人からのメッセージ。アプリの更新。それから、会社のアドレスからのメール。
件名だけ見える。復職面談のご案内、とあった。
日付を確認する。受信日は三日前だった。気づいていなかったわけではない。見えていた。ただ、開かなかっただけだ。
メールをタップする。日程の候補が三つ並んでいた。人事担当者の名前。返信期限。
返信ボタンを押す。
カーソルが点滅している。灯は何も打たずに、しばらく画面を見た。画面の光が、灯の顔を鋭く照らしていた。
灯は画面を閉じた。画面に映る自分から隠れるように、スマートフォンを伏せる。
*
それから四日が経った。
返信期限まで、あと二日。灯はそのことを知っていた。知っていながら、印刷所へ行き、活字を拾い、試し刷りを確認し、玄米茶を飲んだ。誰にも言わなかった。
昼過ぎ、灯が活字棚の前でぼうっとしていた時だった。
「灯」
顔を上げる。湊が作業台から見ていた。
灯は手元を見る。文選箱の中身は、一向に増えていなかった。
「あ、すみません」
湊は何も言わず、しばらく灯を見ていた。それから視線を手元へ戻して言った。
「いいよ、ぼちぼちで」
灯は瞬きをする。湊はこちらを見ずに、版を組んでいる。
「……すみません」
「別に。そういう日だろ」
湊は作業を続ける。灯の肩の強張りは、ほんの少し軽くなっていた。
*
その夜、また画面を開いた。
返信画面を開く。カーソルが点滅している。
灯は一文字だけ打った。「お」。それから止まる。消す。もう一度打って、画面を切る。
スマートフォンを枕元へ置き、電気を消す。
暗闇の中の、白い天井を見上げる。
そういえば、あの朝もそうだった。
灯は目を閉じる。窓の外からは、鈴虫の音が聞こえていた。
*
翌朝、商店街のアーケードを抜けた先で、灯は立ち止まった。
橋の上。今日の潮はまだ動いていない。
スマートフォンを取り出し、メールを開く。返信ボタンを押し、候補日の一つを選ぶ。短い文章を打つ。よろしくお願いします、と最後に書く。一度だけ印刷所を見て、それから送信する。
スマートフォンをポケットへしまった。
印刷所の扉を開くと、ガランガランとベルが鳴る。活版機の音が聞こえる。誠一はまだいない。湊は今日も、活字棚の前にいた。こちらに背中を向けたまま、手だけが動いている。
「おはようございます」
「おはよう」
いつもと同じ朝だった。灯は鞄を置き、帳簿を引き寄せる。
少し経ってから、湊が活字棚の前で言った。
「これ、拾える?」
灯は立ち上がる。「はい」と答えて、活字棚へ向かった。
窓の外では、潮がゆっくりと満ち始めていた。




