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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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18/40

第18話 メール

 夜、実家の居間は静かだった。

 母はもう寝ている。台所の電気だけが廊下へ細く漏れていた。灯はソファに座ったまま、膝の上にスマートフォンを置いていた。画面は暗い。

 親指で触れると、画面が点灯する。通知が並んでいた。知人からのメッセージ。アプリの更新。それから、会社のアドレスからのメール。

 件名だけ見える。復職面談のご案内、とあった。

 日付を確認する。受信日は三日前だった。気づいていなかったわけではない。見えていた。ただ、開かなかっただけだ。

 メールをタップする。日程の候補が三つ並んでいた。人事担当者の名前。返信期限。

 返信ボタンを押す。

 カーソルが点滅している。灯は何も打たずに、しばらく画面を見た。画面の光が、灯の顔を鋭く照らしていた。

 灯は画面を閉じた。画面に映る自分から隠れるように、スマートフォンを伏せる。

           *

 それから四日が経った。

 返信期限まで、あと二日。灯はそのことを知っていた。知っていながら、印刷所へ行き、活字を拾い、試し刷りを確認し、玄米茶を飲んだ。誰にも言わなかった。

 昼過ぎ、灯が活字棚の前でぼうっとしていた時だった。

「灯」

 顔を上げる。湊が作業台から見ていた。

 灯は手元を見る。文選箱の中身は、一向に増えていなかった。

「あ、すみません」

 湊は何も言わず、しばらく灯を見ていた。それから視線を手元へ戻して言った。

「いいよ、ぼちぼちで」

 灯は瞬きをする。湊はこちらを見ずに、版を組んでいる。

「……すみません」

「別に。そういう日だろ」

 湊は作業を続ける。灯の肩の強張りは、ほんの少し軽くなっていた。

           *

 その夜、また画面を開いた。

 返信画面を開く。カーソルが点滅している。

 灯は一文字だけ打った。「お」。それから止まる。消す。もう一度打って、画面を切る。

 スマートフォンを枕元へ置き、電気を消す。

 暗闇の中の、白い天井を見上げる。

 そういえば、あの朝もそうだった。

 灯は目を閉じる。窓の外からは、鈴虫の音が聞こえていた。

           *

 翌朝、商店街のアーケードを抜けた先で、灯は立ち止まった。

 橋の上。今日の潮はまだ動いていない。

 スマートフォンを取り出し、メールを開く。返信ボタンを押し、候補日の一つを選ぶ。短い文章を打つ。よろしくお願いします、と最後に書く。一度だけ印刷所を見て、それから送信する。

 スマートフォンをポケットへしまった。

 印刷所の扉を開くと、ガランガランとベルが鳴る。活版機の音が聞こえる。誠一はまだいない。湊は今日も、活字棚の前にいた。こちらに背中を向けたまま、手だけが動いている。

「おはようございます」

「おはよう」

 いつもと同じ朝だった。灯は鞄を置き、帳簿を引き寄せる。

 少し経ってから、湊が活字棚の前で言った。

「これ、拾える?」

 灯は立ち上がる。「はい」と答えて、活字棚へ向かった。

 窓の外では、潮がゆっくりと満ち始めていた。

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