第17話 また書きます
入口のベルが鳴り、誠一が顔を上げる。そして少し笑った。
「ああ、今年も」
女性も笑う。
「こんにちは」
「こんにちは」
昨日も会っていたような挨拶だった。
灯はカウンターから顔を上げる。初めて見る人だった。白髪混じりの髪を後ろでまとめている。小さな鞄を抱えた女性は、迷うことなく応接机へ向かった。
机の上に封筒が置かれる。女性は中から便箋を取り出した。その横には、以前刷ったらしい紙が何枚か並ぶ。活版印刷の凹み。少し黄ばんだ紙。宛名に書かれていたのは、どれも同じ名前だった。差出人は、この女性だろうか。女性は便箋を揃える。誠一が言った。
「今年も同じで?」
「お願いします」
短いやり取りだった。
*
女性が帰ったあと、机の上には預かった便箋と、依頼書が残っていた。灯はそれを見ながら呟く。
「一枚なんだ」
誠一が頷いた。
「そうだな。毎年一枚」
「これって、採算取れるの?」
誠一が笑う。
「取れると思うか?」
灯は少しだけ眉を寄せて笑った。
その時だった。「灯」と、活字棚の方から声がする。振り向くと、湊が便箋を手にしていた。
「ここからここまで」
一文を指で示す。
「拾える?」
「はい」
湊に続いて活字棚へ向かう。いつものように文選箱を持つ。便箋へ目を落とす。手紙だった。庭の花が咲いたこと。蝉が鳴き始めたこと。商店街にスイカが並んでいたこと。夕立のあと、少し涼しくなったこと。どれも、どこにでもありそうな話だった。特別なことは何も起きていない。それでも丁寧な字で、一行ずつ書かれている。
文選箱へ活字を入れる。カチ、と小さな音が鳴る。
「でも」
湊は顔を上げない。
「ん」
「なんで活版なんですかね」
湊は活字を探している。
「何が」
「手紙。綺麗な字なんだから、そのまま送ればいいのに」
湊は変わらず活字を拾う。
「本人に聞けば」
「冷たいですねー」
「俺に聞かれても」
湊はそう言って、また活字棚へ視線を戻した。
灯は次の文字を拾おうと、もう一度便箋を見た。
最後の文に目が止まる。
また書きます。
来年もまた書く。それだけのことなのに、活字を探す手が、止まった。
*
試し刷りが上がったのは二日後だった。午後。女性はいつものようにやって来た。入口ベルが鳴る。
「こんにちは」
「こんにちは」
誠一が答える。灯は校正紙を机へ置いた。
女性は礼を言い、紙を手に取る。一行ずつ、確かめるように文字を追っていく。間違いを探しているのではない。指先が、活版の凹みを一つずつなぞっていった。そして小さく頷いた。
「大丈夫そうですか」
灯が尋ねる。女性は微笑んだ。
「はい」
それからもう一度、紙へ目を落とす。
灯は少し迷った。
「聞いてもいいですか」
女性が顔を上げる。驚いた様子はなかった。少しだけ間が空いて、
「ええ」
と言った。女性は校正紙へ視線を戻した。
「若い頃からの友達なんです」
静かな声だった。
「手紙ばかり書いていました」
「電話より好きだったんです」
紙の上を指がゆっくり滑る。
「今は返事は来ません。向こうにね、先にいってしまったから」
灯は何も言わなかった。女性も続けない。それだけで十分だった。客間に、蝉の声が入ってくる。そして川の音。遠くを船が通る音。
灯は校正紙を見る。活版の文字が、今日は少し違って見えた。
女性は小さく笑った。そして、文字の上へ指先を置く。
「このへこみを見ると」
灯は黙って聞く。女性は文字をなぞる。大切なものに触れるみたいに。
「読んでくれた気がするんです」
窓の外では蝉が鳴いていた。女性の指は、しばらく紙の上に置かれたままだった。




