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満ちるころ  作者: 飴屋みずき
第1章 朝倉活版印刷所
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第16話 ひと夏

 九月に入った頃から、印刷所の空気が少しずつ変わり始めた。

 変わったのは温度ではなかった。光だった。夏の間、窓から差し込む光は真上から来ていた。活字棚の影が短く、床に落ちる反射も白かった。けれど九月になると、光が少しだけ斜めになる。影が伸びる。壁を移動する光の形が、夏とは違った。

 灯はそのことに、ある朝気づいた。

 活字棚の前に立って、いつものように文字を探していた時だった。棚の金属が光を受けて、夏とは違う色に見えた。白ではなく、少しだけ黄色がかっている。季節の光だった。

 扇風機がまだ回っていた。けれどその風は、少し前より涼しかった。

 川も変わっていた。夏の川は光が強く、水面が白く見えることがあった。けれど今は違う。光が柔らかく、川の色が少しだけ深くなっている。潮の満ち引きは変わらない。それでも、同じ川がいつもとは違って見えた。

 誠一は帳簿を見ている。湊は活字の手入れをしている。灯は窓の外を見ながら、玄米茶を飲んだ。

「涼しくなってきたね」

 誰へ向けるでもなく言うと、誠一が湯呑みを置いた。

「そうだな」

「扇風機、いつしまうの?」

「そろそろいらんくなるな」

 湊は何も言わない。活字を一つ拭いて、棚へ戻す。チ、と小さな音がした。

 しばらくして誠一が立ち上がり、窓を少し開けた。風が入る。机の上の紙の端が揺れる。川の音が近くなった。どこかで虫が鳴いているのが聞こえた。夏の終わりの声だった。

 灯は窓の外を見る。ここへ来た頃、この川は夏だった。蝉が鳴いていた。光が強かった。今は虫の声が混ざり、光が斜めになり、風が涼しい。季節が動いていた。

「ひと夏超えたな」

 湊が言った。灯は瞬きをする。湊はこちらを見ていない。活字の手入れを続けている。

「え?」

「活字も拾えるし、校正もできるし」

 灯が目を見開くと、湊が続けた。

「間違えるけど」

「余計です」

 誠一が笑いながら窓を閉める。

「湊、扇風機の掃除しといてくれるか。しまう前に」

「分かりました」

「灯も手伝ってやれ」

「はい」

 活版機の音が再び始まる。印刷所はいつもの午後に戻っていく。

 夜、灯は東京から持ってきたスーツケースを開いた。実家での生活に必要なものは全て取り出していたけれど、一つだけ、そのまま入れていたものがある。

 コピーライティングの本。東京から持ってきた本だった。

 灯は取り出す。角が丸くなっている。何度も読み返した跡。両手でページに触れると、自然と開く場所があった。何度も読んだページだった。

 灯はソファへ腰を下ろす。

 知っている言葉が並んでいる。学生の頃に線を引いた箇所がある。余白に小さな字でメモが書いてある。自分の字だ。

 ページをめくる。

 たった一行で景色の見え方が変わることがある。灯はその一文の上で、手を止めた。

 昔、初めてこれを読んだ時のことを思い出す。高校の図書室だった。窓から光が差していた。ページを閉じた時、外の景色が少しだけ違って見えた気がした。言葉にはそういう力があると、あの時本気で思っていた。

 今は、もう一度思っている。

 灯はページを閉じる。表紙を見る。それからスーツケースを開く。しかしそこには入れずに、いつもの鞄へしまった。

 窓の外は暗かった。橋の灯りだけがぼんやりと浮かんでいた。

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