第15話 雨の日
今日は、朝から雨だった。
商店街のアーケードを抜けると、雨の音が変わった。屋根のない道へ出ると、雨粒が傘を叩く音が近くなる。橋を渡る。川の水かさが増えていた。雨の日は川の色が違う。いつもより僅かに濁り、重い色になる。水面に無数の波紋が生まれて、すぐに消えていく。
印刷所へ着く。裏口の扉から中に入った。
「雨だな」
誠一が言う。「うん」と答えながら傘を畳む。傘立ては入口の脇にあった。灯が傘を立てようとすると、すでに二本立っていた。誠一と湊のものだ。
雨の日の印刷所は、いつもと少し違う音がした。雨が屋根を叩く音が、活版機の音に混ざる。川の音も少し大きい。窓ガラスに雨粒が当たるたびに、パラ、パラ、と細かな音が重なった。それらが重なって、印刷所全体がいつもより少し低い音に包まれていた。
昼前、雨が少し強くなった。活版機を止めて、誠一が窓の外を見た。湊も顔を上げる。
川が揺れている。雨粒が水面に落ちるたびに、無数の輪が広がっては消える。水面は昼前よりさらに上がっていた。
「氾濫したりしないの?」
灯が聞く。誠一は川を見たまま答えた。
「何年か前、道まで上がったな」
「えー」
「うちは一段あるから、無事だったけどな」
灯は窓の下を見る。確かに入口には一段の段差がある。子どもの頃は気にも留めなかった。けれど今見ると、その段差がただの段差ではないように思えた。何十年もここで印刷所を続けてきた人が、当たり前のように知っていること。
湊は窓の外を見たまま言った。
「満ちてきてる」
灯も川を見る。水面が上がっていた。三人で川を見る。雨が降り続いている。遠くで船の汽笛が鳴った。雨の中の汽笛は、晴れの日より少し低く聞こえた。
誠一が活版機へ戻る。湊も作業台へ戻る。灯も帳簿へ目を落とす。
雨はしばらく続いた。
誠一が壁のラジオをつけた。天気予報が流れる。各地の天気が読み上げられていく。
『東京、雨』
灯の手が止まった。
今頃、あの街も濡れているのだろうか。傘の人波。濡れたアスファルト。改札を抜ける革靴とヒールの音。ついこの間まで、その中にいた。それなのに、ずいぶん遠い。
窓ガラスにパラ、パラ、と雨粒が当たる。印刷所の中では、活版機が動き、活字が鳴り、いつもと同じ一日が続いていた。
夕方近くになって、雨は少し弱くなった。水かさは増えたままだった。
湊が帳簿をめくっている。やがて、あるページで手を止めた。
「朝顔の種」
灯は顔を上げる。
「え?」
「もらってたろ。あの花札の」
「あ、はい」
「植えるなら来年の春だな」
湊はそれだけ言って、作業台へ向き直った。
来年の春。その言葉がどこを指しているのか、灯にはよく分からなかった。




