08 抜け出せない沼
明るく、プレハブの窓から差し込む朝日が斜めに筋となって目視できる部屋。
白檀の高貴な香りの煙がうっすらと漂う部屋には、数名の男女が背もたれを倒した状態の椅子に、ほぼ仰向けに横になっている状態で目を閉じている。
「では、朝のお勤めを始めましょう。よろしくお願いします」
部屋の中で椅子の上にいる者たちは、全員がVR用のヘッドセットにヘッドフォンを身に着けている。
「しばらくはヘッドフォンから流れる私の声に耳を傾けて下さい。リラックスして全身の力を抜いて、もしも眠くなったら眠ってしまっても構いませんからね」
鵜殿の低く落ち着いた声は、ヘッドフォンから全員の耳に等しい音量で届いている。
「あの、そんな眠ったりしても大丈夫なんでしょうか……? お勤めとかいうのだと、もっとこう、厳しいものだったりとか……」
「鯖江さん、ご心配はごもっともです。ですが、大丈夫ですよ。私達歓喜観音会は仏教を基盤とした宗教団体ではありますが、そんなに厳しいものではありません。悩み、傷つき、苦しんでおられる方々が安らげる居場所であることが、私達観音会の目的です。お勤めも、皆さんの心を整え、落ち着けるためのリラックス法だと思って下さい。リラックスして眠っても問題ありません」
「そうですか、ありがとうございます……なんだかここは暖かくて、いい匂いがしてホッとしてしまって、すみません、正直に言うと今でも少し眠たいです」
「あぁ、それは良かったです。鯖江さんの心が少し落ち着いて来た証拠ですね。いい傾向です。では、目は開けていても閉じていても構いません。聞き流しながら、全身の力を抜いてリラックスしてください」
すぅ、と息を吸う音。
VRヘッドセットの内部では、美しい山々が遠くにそびえ、湖面は鏡のように静かで空や山の景色を映し出している。
木々の葉擦れの音に、遠くから聞こえるような鳥のさえずりに紛れるように、チベット寺院で使われる『シンギングボウル』という楽器の音が聞こえてくる。
「ゆっくり、息を鼻から吸って下さい。吸い込んだ息が鼻から頭のてっぺんを通り、首の後ろから頚椎、脊椎を通って骨盤まで届きます。骨盤まで届いた息を丹田に溜めて、ゆっくりと口から息を吐きましょう。リラックスして、大きな呼吸を心がけて下さい。これは赤ん坊が眠っているときの呼吸です。何の心配もない、何の憂いもない、何の後悔もない赤ちゃんの呼吸を真似ることで、皆さんの心に絡みついたしがらみという名の縄をほどいていきます」
鵜殿の声に合わせて、安楽椅子のような革張りの椅子に横たわる6人の男女は深呼吸を繰り返す。
最年長となる鯖江孝子を始めとして、彼らは全員、西東京署に失踪届けが出されている、失踪中の者たちだ。
夫の浮気と使い込み、それに認知症の母の介護に疲れ果てた初老の女。
高校受験の両親の期待とプレッシャーに耐えかね、成績不振への激しい叱責と殴打から逃げ出した女子中学生。
大学のサークルの飲み会で酔いつぶれ、そのまま男子生徒たちに弄ばれ身も心も深く傷つき学校にいけなくなった男子大学生。
ブラック企業での過酷な労働で心身を病み、リストカットを繰り返していたOL。
定年退職後、突如長年連れ添ったはずの妻から離婚を切り出され、全財産の半分を持って行かれた60歳の元銀行員。
学級崩壊のなか、PTAと日教組、さらに生徒や家庭との板挟みに苦しんだ挙句、教頭からのセクハラで心を病んでしまった女性教師。
全員が、暖かくて明るく、穏やかで、白檀のいい香りに包まれた部屋の中で横たわって深呼吸を繰り返す。
「では、左足の小指から、意識して力を抜きましょう。小指の力が抜けたら、次は薬指、中指と身体の末端から力を抜いて行って下さい。足の指の力を全部抜いたら、次は足首の力を抜きましょう。ふくらはぎの力、太ももの力、足腰の力を抜いていきましょう」
すでに男子大学生とOLは意識を手放し、寝息を点て始めている。
「さぁ、全身の力が抜けましたね。では、妙見菩薩様と大聖歓喜観音菩薩の真言を唱えます。眠っている方は、眠ったまま心で聞いてください。大変力のある、ありがたい真言です」
すぅ、と大きくゆっくりと、鵜殿が息を吸う。
『|オン・ガム・ガナパタイエ・ナモ・ナマハ《大いなるガネーシャ神に心より帰依し奉る》』
『|オン・ソチリシュタ・ソワカ《妙見菩薩に心より帰依し奉る》』
低く優しい声で唱えられる、呪文のような真言の意味を理解できるものは、6人の中には誰もいない。
白檀の香りの香の煙にまじり、ほんの僅かな異臭がまじり始めた事に、6人は気づかなかった。
全員がすでに眠りに落ちてしまい、大きくゆっくりとした呼吸を繰り返している。
ヘッドホンからはシンギングボウルの音に混ざって真言が繰り返し唱えられている。
部屋の中には、6人しかいない。
いつの間にか換気扇は止まり、煙に混じって水蒸気がゆっくりと部屋の中に入り込んでいく。
アムリタと名付けられた、極めて依存性の高い合成麻薬である。
「ふぅ」
別室のパソコンの前、マイクが接続されたミキサーの消音を押して、ゆっくりと立ち上がる。
「お疲れ様でした、鵜殿教導師」
パソコンのスピーカーから、落ち着いた女の声が聞こえてきた。
「あぁ、お疲れ様です、烏丸さん」
「全員のバイタル、安定しています。血圧脈拍ともに正常です」
「そうですか。わかりました。そしたらいつも通り、『鍵が開いた』ら、刷り込みをお願いします」
「承知しました。教導師。あと、今日入信されたみなさんが持参された『お布施』は、いつものルートで洗浄済みです。本日午後にはメイン口座に入金されます」
「ありがとうございます。私は少し休憩します。何かあったら何時でもスマホにメッセージなり電話なり、連絡をください」
「承知しました。お疲れ様です、教導師」
ひゅん、と短い通知音の後、烏丸からの連絡は終わる。
中学生や大学生といった子供は別に布施などはいらない。彼らは今後の観音会の活動において、布教役として学校や地域への潜入という重要な役割を演じることになる。
元銀行員はまだ利用価値があるが、布施を持参した鯖江とかいう老女はもはや用済みだ。彼女には濃度を高めたアムリタの蒸気を吸い込ませている。
せめて苦しむこと無く、歓喜の妙薬の力でその残り少ない寿命を捧げ、教祖鳩ヶ谷妙見の一部となれるよう、その妙薬の濃度を調整してやるのも菩薩の慈悲というものだろう。
実にシステマチックに、効率よく、スタイリッシュに信者を洗脳する。
このシステムは、鳩ヶ谷妙見と鵜殿宏和の2人が作り上げたものだ。
「さて、一服してから仮眠をとりましょうか」
鵜殿はそうつぶやいて、小さめのドアから、薄暗い部屋を出ていった。




