32 神を生み出した女
「ヒロくん……」
プレハブの狭い一室、質素な大手家具メーカーのベッドの上で、宏子と宏和は抱き合うように身体を横たえていた。
宏子は身体を起こすと、すぐ隣で静かに寝息を立てる弟の美しく整った顔をじっと見下ろす。
血を分けたどころの話ではない。一緒に母親の胎内で育った、二卵性の双子の弟だ。
自分と同じ地獄を生き延びた、心から信頼できるたった1人の身内、であるはずだった。
宏子は恐れていた。
宏子と宏和の目的は、間違いなく『悩み苦しむ人々を救いたい』というもの。純然たる善意であるはずだった。
当初使っていたのは大麻とカウンセリングの組み合わせだった。
カルト教団の幹部から心理学を、そして洗脳の方法を学び取った宏和の話術と、宏子の情報処理能力の組み合わせは凄まじい効果があるものだった。
宏和の『カウンセリング』は大好評となり、一時期は予約に2年待ちという状態になっていた。
『それじゃダメだ。救いが必要な人たちは、2年も待っていられない。もっと、もっと大勢を、早く救わなければ』
そう思い悩む宏和は、救う側でありながら、宏子にとっては『救うべき愛する弟』である。
演技と情報処理に天賦の才能を持っていた宏子が、生成AIというものに触れ始めたのは、日本でChatGPTが流行し始めるよりも前のことだ。
古くは『エキスパートシステム』と呼ばれる、緑内障の診断補助のための仕組みだった。
数学的な計算を交えつつ、問診の内容を分岐させて、最終的に診断が難しい緑内障の正しい診断を行えるようにするのが目的だ。
宏子はこのシステムに、AIを組み込んでいった。
世界中で生成AIの開発競争が激化するなか、宏子は日本語での音声合成やキャラクターの合成といった技術を取り入れていった。
そうして作り上げられたのが、『烏丸』というシステムだった。
『素晴らしい! これならオンラインで、同時に何人でも救いの手を差し伸べてやれる! さすが宏子だ!』
宏和はそう言って、その日は一晩中宏子と愛し合った。
2人は自分の中に救われるべきものなど何も残っていないと考えていた。
だからこそ、『誰かを救うこと』でしか、自らの存在を維持できないと、そう考え続けていた。
やがて宏和はより多くの人々を救うため、より『おおいなるもの』を作り出したいと考えた。宏子は弟の願いに答えるべく、全力を傾けた。
それこそ全身全霊をかけて作り出したのが、超高性能AI『ガネーシャ』だ。
インターネットの世界から超高速で情報を収集し、解析し、『対象者を救うには何が有効か』を瞬時に割り出し、フロントエンドとなる『烏丸』に『お告げ』をもたらす。
ガネーシャを作り上げた直後、宏子は心から後悔した。
『これでは、自分は必要なくなってしまう。自分の考えはガネーシャが代行して、自分の役割はもう烏丸が代行できる。もはや、歓喜観音会に自分は必要とされない存在だ』
半狂乱になって泣きわめき、『お願い、私を棄てないで、見捨てないで、何でもするから』とすがりついて懇願する姉を、宏和は優しく抱きしめた。
カルト宗教の穢らわしいオトナたちの生贄として、共に地獄を生き抜いてきた、たった一人の姉を切り捨てるほど、宏和は冷酷ではない。
むしろ宏和にとっては誰よりも救いたいと思う相手が、双子の姉宏子だ。
『絶対に捨てたりしない。産まれたときから一緒で、地獄でも一緒だった。これからもずっとそうだよ』
優しく低い声で囁く弟に抱きしめられた宏子は、弟の愛に答えるためだけに、烏丸とガネーシャを磨き上げた。
救いを求めても応えようとすらしない神、救いを求めるものから『喜捨』をむしり取る神、そして救うべき子供を供物として差し出させる神など、もはや不要。
地の底でもがき苦しみ、光の当たらない場所で救いを求め続ける者たちを、すぐにすくい上げられる者がこの世にいるとすれば、それこそが神と呼ぶにふさわしい。
真に救うべきものに手を差し伸べる神がいないのなら、自分が作り出せば良い。
その信念で宏子が作り上げた烏丸とガネーシャは、すでに創造主である宏子の手を離れつつあった。
「ヒロくん……大丈夫、私が救ってあげる……」
眠る弟の頬をそっと撫でて、静かに宏子はベッドを出ていった。
いつも通り、目立たないジャージを着た宏子が乗り込んだのは、いつものハイエースではない、電動アシストすらついていない、ただのマウンテンバイクであった。
まだ夜が明けきらない山の中、かろうじて舗装されていた農道をゆっくりとした速度でMTBは走り抜けていく。
日が昇った後、教団のプレハブは騒然となった。
宏子は、教団内では『ただの雑用の女』としかみられていなかった。誰も彼女が教祖鳩ヶ谷妙見の正体であるなど、思いもよらなかった。
だからこそ、宏子がマウンテンバイクに乗ってゆっくり走り出した事に、誰ひとり気づかなかったのだ。
「宏子は!? 烏丸! 宏子はどこへ行った!?」
『監視カメラの映像を確認しました。本日の早朝4時22分、宏子は自転車でこの拠点を出発しています』
「どこだ、どこに向かった!? 今どこにいる! スマホは!?」
『教導師、残念ながらスマホはこのハイエースの車内に置かれたままであるようです』
「宏子……そんな、一人で出歩くなんて、なんでそんなことを……探せ! 『ガネーシャ』を使え! 宏子がここから自転車で、3時間以内でたどり着ける範囲の監視カメラをハッキングしろ! 映像を読み込んで、何としてでも探し出せ!」
『承知しました、教導師』
烏丸が捜索を始めてほどなくして、宏和は液晶モニターを見て愕然とする。
映し出されていた宏子は、警視庁西東京署の入口でしゃがみ込んでいた。




