33 救いを求める声
「お待たせしました。刑事課の警部補、熊川です。こちらの女性は生活安全課の大神です。鵜殿宏子さん、でお間違えありませんね?」
「は、は、はい……あ、あっ、あの、あ、あの、わ、わた、私その、あの……」
この日、警察署の入口にしゃがみ込んでいるジャージ姿の女を見つけたのは、生活安全課の大神だった。
たまたま夜勤の担当であった大神が眠気覚ましに外の空気を吸おうとした所で、入口の死角になる場所にしゃがみ込んでいる髪の長い女を見つけたのが、朝8時前のこと。
ジャージはところどころ汚れて擦り切れ、さらに手のひらには豆が出来、あちこち傷だらけのマウンテンバイクが丁寧に駐輪場に停めてあった。
『どうしたんっすか? 警察署になにかご用っすか?』
しゃがみ込んだ大神がそう声をかけた直後、髪の長い女は『ひぃ』と悲鳴のような声を上げた。
怯えたような表情で、なかなか言葉を出せないでいた女に、大神は優しく微笑んでみせた。
『大丈夫っすよ。ほら、外は寒いっすから、中入ってください。あったかいお茶——ってお茶しか無いけど、良いっすか?』
と優しく声をかけ、早朝警察署にやって来た女を保護したのだった。
早朝の冷え込みは厳しく、ジャージ1枚しか着ていなかった女は全身ブルブルと震え、最初は湯呑もまともに持つことが出来なかった。
『ゆっくりで大丈夫っすから。寒いっすよね。今毛布持ってくるんで、そのお茶、ゆっくり飲んでてください』
大神は大柄で、女性としては強面の部類に入るだろう。だが、その言葉と声はどこまでも優しかった。
『あ、あ、あの、あ……あの、わ、私、その、あの……う、鵜殿、宏子……です。あの、えと、あの、が、歓喜、観音会の……』
とかなり小声でつまりながら話し始めたジャージの女の口から語られた名前を耳にしたのは、たまさかそのタイミングで出勤してきた戌井と熊川である。
教団ナンバー2の教導師、鵜殿宏和の双子の姉にして、教団内での役割がまったくの謎とされていた人物。
警察もマークすべきかどうかで意見が割れていた、立場も経歴も全てが謎の女。
宏子は暖房の効いた暖かな部屋へ連れられたが、身体の震えは止まらなかった。
その震えが寒さによるものだけでなく、怯えからくるものだと気付いたのは熊川だ。
事情聴取には、同じ女性である大神が立ち会い、強面で言葉使いの荒い戌井は別室で取り調べ室の様子を見るにとどまった。
「わざわざご足労いただきありがとうございます。署までは自転車で来られたんですか?」
「は、はい……あ、あの、すみません、その……わ、私……話す、のが、に、苦手で……」
「大丈夫ですよ。ゆっくりで構いません。ここには鵜殿さんを傷つけたりする者は誰もいません。我々警察が必ず、お護りします。まずは水分をしっかりと摂ってください。寒くありませんか? 朝食もまだでしょうし、なにか用意させましょうか」
宏子は黙って湯呑を両手で抱えたまま、首を横に振った。
しばらくの間、沈黙が続く。
以前、西東京署の受付の者が待ちきれずに声を荒げてしまったときとは違い、熊川はじっと待ち続ける。
大神がソワソワし始めても、熊川は優しい表情を崩さず、時折『まだ朝方は寒いですね』など、つとめて優しく落ち着いた声をかけていた。
「あの」
何の前触れも無く、唐突に宏子は口を開く。
湯呑を静かにテーブルにおいて、熊川に向かって深々と頭を下げた。
「お、お願い、します……弟、弟を、あ、あの、あっ——」
「弟さん……というのは、歓喜観音会の教導師、鵜殿宏和氏のことですね?」
ためらいが見て取れる表情のまま、宏子は頷いた。
「あの、あ、えと、あの、わ、私はその、おおお弟の、宏和の、あの——」
「あの、すんません、ちょっと良いっすか? 鵜殿さん、ホントすんません、話遮っちゃって。凄く話すのつらそうッスけど……」
「す、すみません! すみません、ごめ、ごめんなさい、あの、す、すみません……」
「や、あの、違うんすよ。もし口で話すのが辛かったりとか、難しかったりするようなら、筆談っていうか」
大神はノートパソコンを取り出して、テキストエディターを起動した状態で宏子の前に差し出した。
据え置き型のディスプレイに画像を出力して、エディター画面を熊川と大神も確認できるように調整すると、対面に座る宏子に人懐っこそうな笑顔を見せる。
「これでどうっすかね? キーボード入力なら——ってそうか、キーボード入力とか大丈夫な感じっすか?」
『はい、ありがとうございます。これなら大丈夫です』
ディスプレイの画面に、信じられないほどの速度で文字が打ち込まれていった。
下手をすると、ゆったりとした話し方の熊川が話すよりも速いのではないか、というほどの速度のタイピングだった。
「じゃあ、一応その、音声も録らせてほしいんすけど、どうしましょうかね……」
『これで、大丈夫だと思います』
さらに、パソコンのスピーカーから、合成であろう音声が聞こえてきた。
やや造り物感はあるが、女性の声に間違いない。
「す、凄いっすね……あの、自分で振っといてなんですけど、こんなん出来るとか知らなかったっすよ……」
「私も初めてですね……鵜殿さん、この筆談、といって良いんでしょうか、この方法での事情聴取にご協力をいただけますか?」
凄まじい、まるで機関銃のような速度のタイピング音の直後、スピーカーから、ハッキリとした女性の声。
『はい、よろしくお願いします』
続いて短いタイピング音と同時に打ち込まれ、ディスプレイに映し出される文字に、熊川は目を見開いた。
そこには熊川も、大神も、警察の誰もが想像もしていなかった言葉が並んでいた。
『全部私のせいです。全て私が悪いんです。弟は何も悪くありません。どうか、弟の宏和を助けてください。あの子を止めて、救ってあげたいんです』




