25 ふたりでひとつ
ハイエースの車内で、手際よく化粧を落として髪を解き、普段着であるジャージに着替えた鵜殿宏子は、前髪が顔にかかった状態で猫背になり、大きくため息を吐く。
『お疲れ様でした』
「あ、は、あの、はい」
つい数分前、大学の准教授であった男を傲然と見下ろしたとは思えないほど、おどおどと落ち着きのない様子で液晶モニターを見上げる。
すでに、そこに鳩ヶ谷妙見は存在しなかった。
耳にはめ込んだブルートゥースのイヤホンからは、落ち着いた烏丸の音声が聞こえてくる。
『教導師からご連絡です、車に来てもいいか、とのことですが』
「……あ、は、はい……」
小声で、囁くような返事の後、ほんの数分でハイエースのスライドドアが開いた。
「お疲れ様、姉さん」
「ヒロくん……」
鵜殿宏子が、鳩ヶ谷妙見の仮面を被らなくても普通に喋れる唯一の相手、弟の宏和は、整った顔に優しげなほほえみを浮かべて宏子のすぐとなりに腰掛けた。
「烏丸から聞かせてもらったよ。あの分じゃあ鷲崎博士はそろそろダメかもしれないな」
「…………あの、ひ、ヒロくん」
「ん? なに?」
宏子は、これまでに何度も何度も、何年も一つの言葉を言い出せずにいる。
『もうやめよう』
その言葉をなんど言いかけたことか分からない。
実際に、こうして姉弟2人だけのときに何度も言葉が出かかったことがある。
それでも、言えなかった。
歩みを止めたら、宏和は正気を保てないだろう。
宏和が幼い頃からどんな目に遭ってきたか、宏子は自分の身をもって知っている。
体中の血液を棄ててしまいたいと思えるほどの自己嫌悪に、どんな高級料理を食べた直後でも胃の中身を全部ぶちまけてしまうほどの吐き気に襲われる。
自分でやめようと思ったときにも、気が狂ってしまいそうになるほど自分自身に対する拒絶反応が出てしまう。
宏子にとって、宏和はたったひとつ自分に残された『たいせつなもの』だ。もしも宏和に、自分と同じような『自分自身への拒絶』が起きたら、それは死ぬよりも辛く苦しい思いをしてしまうことになる。
大切な、たったひとりの家族がそんな思いをするくらいなら、ふたりで一緒に地獄に堕ちてしまった方がどれだけ楽だろうか。
二卵性とは言え、宏子と宏和は双子だ。
見た目もよく似ているし、物心付く前から2人はいつも一緒だった。
お互いが考えることも似ているし、行動パターンもよく似ていた。
だからこそだろうか、宏和も宏子に対してまったく同じことを考えていた。
『大切な姉がひとりで壊れてしまうなら、自分もいっしょに狂ってしまおう』
宏和がそう心に決めたのは、幼い頃に両親が心酔していた『神の使い』と呼ばれる男に犯されている最中のことだった。
宏子も、きっと今こんな辛い思いをしているに違いない。
それなら、少しでも宏子の辛さを軽くするために、出来るだけたくさん自分が引き受けてしまおう、そう考えた。
「ヒロくんは、大丈夫なの?」
姉を想う弟の優しさも虚しく、宏子は三度の妊娠と三度の堕胎を経て、恐らくはもう妊娠は望めないであろう身体になってしまった。
男の宏和は妊娠のリスクはなかったが、女の宏子はその限りではない。
宏子は、結局自分の妊娠に気付くこともなく、胎内に宿った命を奪われていた。
宏和は、本気で『苦しむ姉を救いたい』と心の底から考えていた。
かつて自分と姉をモノのように差し出した両親も、慰み者にした聖職者たちも、救いの手など差し伸べなかった仏も、泣いて許しを乞う声に応えようとすらしなかった神も、もはや当てにならない。
姉だけはなんとしてでも救い出してやりたい。
でも、神も仏も応えはしないし、手を差し伸べたりなど絶対にしない。
ならばこそ、自分が救わねば。
苦しむ大切な人を救うためにこそ、自分は産まれてきたのだ。ならば、同じ日に同じ母から生を受けた愛する姉も、同じ使命をもっているはず。
誰よりも地獄を知り、苦しみを知る自分たちでなければ、本当に苦しむ衆生を救うことなど出来はしない。
一切の曇りなく、宏和はそう信じていた。
だからこそ、まだ幼かった自らの身体を餌に、貪欲に知識を学び続けた。
宗教者を名乗る穢れた者たちからは、どうすれば人を動かせるのかを学んだ。
数学者からは数学を、薬学者からは薬学を、芸能関係者からは演技を学び取っていった。
「大丈夫だよ」
宏子と宏和の両親は、最後の最後まで神に祈り続け、全てを失って死んだ。
それが救いによる死だったのか、絶望の底で命を失っただけなのかは、今となっては宏和にも分からない。
——救わなければ。自分たちを棄てた親のような、クズに虐げられている人々を。
それが、今の宏和を動かす純粋で残酷な動機だ。
「姉さん、大丈夫。俺が一緒にいるから」
「うん……」
優しい抱擁と、姉弟のものではあり得ない艶めかしい口づけ。
ぼそ、と宏和が宏子の耳元で何かを囁くと、宏子はぶるぶると全身を震わせた。
次の瞬間には、まるで酒に酔った少女のような、蕩けた表情で弟の顔を見上げる。
「わたしも、あいしてる」
うっとりと、熱に浮かされたように紅潮した顔でそう囁くと、弟の愛撫を受け入れた。
「烏丸、わかってるね」
『はい教導師、お呼びかけがあるまで、データ処理に専念します』
ひゅん、と軽い音を立て、ハイエースの車内が暗くなる。
車のドアが自動でロックする音。
宏子は狭い寝床の上で仰向けになり、まるで愛する夫の愛撫を待ち望む妻のように両手を伸ばし、宏和を見上げていた。
「ヒロくん、愛してる」
「俺も愛してるよ、宏子」
ハイエースの周囲を警戒するセンサーが起動すると同時に、教団のプレハブの周りを照らしていたライトも消灯する。
全て、AIである烏丸の操作によるものだ。
ハイエースの車体が少し揺れ始めるが、その様子を見るものは誰もいない。
山中の木々に囲まれた森は、今日も静かだった。




