23 懐かしい名前
「センセイ!? お久しぶりデす!」
ある日のスナックFOXには、数カ月ぶりの客が訪れていた。
以前、アカハラと連日の実験と仕事のために追い詰められ、疲れ果てていた若き薬学研究者、鷺宮である。
「白さんもママも、それに鶴岡さんも。その節はどうも」
「あぁ、君はアレだねぇ? ミマちゃんの大学の講師の先生だった、鷺宮さんだっけ? いやぁずいぶん血色も良くなって、元気になったみたいだねぇ? どう? 鷹村くんのところは、厳しいでしょ?」
「いやぁ、厳しいです。でも理不尽なところが無いから凄くやりやすいです。鷹村教授は、良いところは良い、ダメなところはダメと容赦なく指摘してくださいますから」
「うんうん、鷹村くんはそういう人だからねぇ。いや良かったよ、その様子じゃ研究者としてちゃんとやれてるみたいだねぇ。いや良かった」
白美真の指導教官でもあった彼は、勤め先でもあった大学での大スキャンダルに巻き込まれ、研究者としての職を失った。
が、その直後、美真がバイトするこのスナックFOXの常連、鶴岡の人脈の力を借りて、故郷の島根にほど近い広島にある大学で再び研究者として働くことが出来るようになっている。
「それで、鷹村くんは元気?」
「はい、お元気です。どうやったらあんなにパワフルに動けるのか不思議なくらい」
「あははは、まぁ、結果を出す研究者っていうのはみんなパワフルだからねぇ。鷺宮さんもね、ちゃんと食べるもん食べて、しっかり力つけないとねぇ。それで、今回は東京へは学会か何かで?」
「はい。久々に学会で東京に来ましたんで、あの時のお礼を改めてと思いまして」
美真が通う大学で准教授を務めていた鷲崎という男が、半グレ組織にMDMAのレシピと材料を横流ししていた、というとんでもない不祥事は、一時期大学に報道陣が詰めかけるほどの大事件であった。
この事件を内部告発したのが、誰あろう鷺宮である。
「いやぁ、そんな気にしないで。元気で頑張ってくれてるのが一番のお礼なんだからさ。それで、今日は飲んで行けるの? シャンパンでいいかな?」
「えっ? え、いや、そんな——」
「良いから良いから。僕みたいな年寄りはね、若者にご飯とお酒をごちそうするのが生きがいみたいなもんだからさ。ここはちょっと、奢られてちょうだいよ。ね? ママ?」
「そうね、シャンパンで気が引けるようなら、スパークリングワインなんかどうかしら? お手頃価格であるわよ」
「じゃあそれにしようか。ミマちゃんもチーママも、それにママにジェニーちゃんも一緒に。タヌさんも飲むかい?」
「え? 良いの?」
カウンターで相変わらずハイボールを飲んでいた田貫は、ついさっき鷺宮が入店してからミマが移ってしまったため、少し不満げな顔であったが、一気に嬉しそうな表情に切り替わった。
「ちょっとタヌさん? ミマちゃん取られてふてくされてたのに、そんなに私じゃ不満かしら?」
まるで子どものような変わり身を見せた田貫に、今度はすぐ前で接客していたジェニーが苦笑して見せる。
「いやいやいや、ゴメン、そうじゃなくってさ? ジェニーちゃんに不満なんかないよぉ、当然じゃないの」
「あらそう? 男ってやっぱりみんな若い子が良いんじゃないの?」
「ほらほら、ジェニーもあんまりタヌさんイジメないであげて。ミマちゃんが妬いちゃうわよ」
「あら、ゴメンねミマちゃん、私別にタヌさんのこと何とも思ってないから」
「え、ジェニーちゃん酷い。やっぱりジェニーちゃんも若い男のほうが良いの?」
「そりゃそうよ。ねー? チーママ?」
「えー? 私はツルさんがいいなぁ。ダンディでオトナのオトコって感じで」
チーママの伊立は幼い外見ながら、水商売歴は非常に長く、オジサマキラーでもある。
客の中には『別れた女房が連れて行った娘を思い出す』と無き出す者がいたり、『ダメだよ未成年がこんな店で働いたら』と説教をした挙句出禁を食らう、などというものも過去にいた。
「はいはい、それじゃツルさんご提供、スパークリングワイン開けましょ。ジェニー、ミマちゃん、グラス用意してちょうだい。人数分ね」
「はぁいママ。じゃミマちゃん、私注ぐから、チーママとツルさんとこに持ってってあげて」
「ハイ」
狭い店内がにわかに賑やかになり、すぐに乾杯の声が響く。
スナックFOXは今日も平常運転である。
「そう言えば白さん、あのあと大学は大丈夫だった? 鷲崎准教授が退職して、教授も引責辞任だっけ」
「ハイ。でも別の准教授がすぐ教授にナって、授業と実験も少し遅れてマすけど、再開してマす」
「そうなんだね。良かった……いや、広島でさ、鷲崎准教授について変な噂聞いたからさ」
「鷲崎センセイですか?」
「そう。大学を辞めたあと、どこかの宗教団体が経営してる研究所に入ったとか……昨日学会で久々にあった昔の同期から聞いてね。何だっけ、ガンギマリナントカっていう変な宗教団体で——」
店内のほぼ全員が、視線を顔ごと鷺宮へと向ける。
「それ、歓喜観音会じゃないかしら」
「あぁそうそう、それです。それで、まぁこれはあくまで噂なんだけどね? あの人麻酔薬とか鎮痛剤とかが専門だったから、麻薬の研究してるんじゃないかって噂になってて、最近になって東京とかで流行りだした、変なクスリを作ったのも鷲崎先生なんじゃないかって、そんな噂なんだよ。鷹村教授も頭を悩ませててね。薬学研究者の面汚しだって——あれ? あの、すみません、何か変なこと言いました?」
「いえ」
木常は一瞬だけ眉間にシワを寄せたが、すぐにいつもの『営業用』の笑顔に戻る。
「ねぇ鷺宮センセイ? 今日ってこれからまだ時間あるかしら? 『イヌのお巡りさん』、呼んでも良い?」
にこやかな笑顔でそう尋ねると、鷺宮の返事を聞く前にスマホで何処かへと電話をかけ始めていた。




