20 鵜は深く潜る
ハイエースが静かに入り込んだのは、プレハブの建物がいくつか並んだ山中の工事現場のような場所であった。
エンジンを止めた車内で、宏子は躓きながら後部座席があったエリアへと移り、鏡の前で器用に化粧を施していく。
長い髪を丁寧に梳かして流れるような指さばきで結い上げると、そこには年齢不詳の美女と呼んで差し支えない容貌の女が座っている。
白い装束で身を包み、じっと鏡を至近距離から覗き込む。
鵜殿宏子が、教祖『鳩ヶ谷妙見』になるために必要な儀式であった。
私は鳩ヶ谷妙見。
歓喜観音会を作り上げた女。
妙見菩薩の化身。
大聖歓喜観音菩薩の使徒。
そう呟く声を確認したAI『烏丸』が、ハイエース車内のスピーカーを使って『鳩ヶ谷妙見』に声をかけた。
『お疲れ様です、妙見様』
目を閉じて大きく鼻から息を吸い込み、思い切り身体をのけぞらせた女は何かを小声で呟いていた。
明らかに日本語ではないその言葉は、真言と呼ばれる、古代インドのサンスクリット語に由来する言葉である。
「|オン・ガム・ガナパタイエ・ナモ・ナマハ《大いなるガネーシャ神に心より帰依し奉る》」
「|オン・ソチリシュタ・ソワカ《妙見菩薩に心より帰依し奉る》」
何度か真言を繰り返した後、ハイエースの車内にはすでに『鵜殿宏子』は存在しない。
「烏丸」
『はい、妙見様』
「今日の予定は」
『はい。今日は新規の信者への説法と、教導師のイニシエーションの仕上げを行う予定です』
「分かった」
口調だけではない。
姿勢、目つき、表情、口角の上げ方、立ち居振る舞い、全てがまるで別人である。
この姿を見て、彼女がつい先日西東京署の受付で、自分の名前すらマトモに話せずに門前払いにあった女、鵜殿宏子と同一人物であるなど誰が想像出来るだろうか。
烏丸を通じて、『準備』が整った事はタイムラグなしに教導師こと鵜殿宏和に伝えられている。
ハイエースの前には、白装束に藍色の首掛け袈裟を身に着けた宏和を始めとする教団の幹部が数名並んでいた。
「おはようございます、妙見様」
「お疲れ様ね、教導師」
「とんでもないことです。妙見様の『お勤め』に比べれば、我々の仕事など大したことはありません」
「あら、殊勝な心がけだこと。それで? 今回の新規の信者は何人?」
「8名です。いずれも悩み、苦しみ、虐げられた哀れな衆生です。妙見様と大聖歓喜観音菩薩様のお力で、どうか救いの手を」
「苦しむ衆生がいるなら、手を差し伸べなければならないわね。迷い惑う者たちのために、『導きの星』を見せてあげなければいけないわ」
「仰るとおりです、妙見様」
宏和にとっては、すでに見慣れた姉の姿だ。
かつて、馬渕陽一という男が自分自身を『鳥井健三』であると心の底から信じ込んだように、今宏和の目の前にいる鵜殿宏子は、自らが教祖鳩ヶ谷妙見であると心の底から信じ切っている。
だからこそ、その行動には矛盾がなく、言動には嘘がない。
そして鳩ヶ谷妙見は、イニシエーションと呼ばれる『お芝居』が終わると、白装束を脱いで化粧を落とし、鵜殿宏子へと戻る。
多重人格とはまったく異なる領域だった。
鵜殿宏子は子供の頃からお芝居を演じることを強いられてきた人生を送ってきた。
幼い頃から、カルト教団の歪み穢れた大人たちに供物として捧げられ続け、心身を穢され続けてきた彼女は、自分の心を護るために大人しく従順な少女を演じ続けてきた。
抵抗しなければ殴られない。
口答えをしなければ食事を貰える。
自分の身体に侵入される不快感を、悦んで迎え入れるフリをしていれば、早く終わる。
何年も何年もそうして演じる内、宏子は演技の天分を発揮させるに至った。
が、その代償は極めて大きかった。
あまりにも長く演じ続けてきたせいで、宏子自身が演じていない状態を思い出せなくなったのだ。
本来の自己を削り演じ続けた結果、最も守らねばならない『鵜殿宏子』が、原型もわからぬほどに削り取られてしまっていた。
宏子が言葉を失ったのは、もはや自分というものがほとんど残っていないことに気付いた時のこと。当時、鵜殿宏子はまだ17歳の少女であった。
宏子自身、かつて自分が演じていたときに自分に何が起きていたのか、もう思い出せなくなっていた。
当時からすでに20年が経っている。かろうじて残った残り少ない自分を護るために、彼女の脳が忘れるという選択をしたのだろう。
「妙見様、こちらに。虐げられた衆生を、その大慈大悲の心でお救いください」
「えぇ。苦しみは取り除かれなければならないわ。歓喜草と歓喜水の用意を。いつも通り、彼らを苦しみから解放してあげましょう」
がたん、と軽い音を立ててプレハブの扉が開いた。
そこには、畳敷きの部屋に正座している8人の男女の姿があった。
すでに鵜殿宏和によるカウンセリングを受け、鍵が開いた状態までは至っている。
あとは、仕上げの『上書き』を残すのみの状態。
全員が、目も口も半開きの状態でなかば放心状態だ。
何らかの薬物の影響下にあるということは、誰の目にも明らかだ。
「皆さん、よくぞ私たち歓喜観音会を頼ってくれました」
鵜殿宏子の、鳩ヶ谷妙見としての声は、双子の弟である宏和と同様、どこまでも優しく人の心に深く入り込むものだった。
「苦しかったでしょう。辛かったでしょう。皆さんは、もう充分に苦しみました。もう解放されて良いのです。過去の、押さえつけられた自己を捨てても良いのです」
8人の男女のもとには、銀色のゴブレットに注がれた水が運ばれてきた。
無色透明、無味無臭なその液体は、『アムリタ』が少量溶かされた水溶液である。
「その歓喜水を飲み干すのです。大聖歓喜観音菩薩の慈悲が、皆さんの身体に染み渡ります。今日、ここで生まれ変わるのです。大聖歓喜観音菩薩の慈悲に包まれて、喜びに満ちた新たな生を生きることを赦されるのです」
まったく淀みも迷いも、そして負い目もない言葉に、8人の男女は一斉にアムリタの溶けた水をひといきに飲み干した。




