19 消えた足取り
「鵜殿ねぇ……悪いけど聞いたこともないわね。それにこの写真じゃわかんないわよ、だって全部髪の毛じゃないの」
「私もわかんなぁい。っていうかすっごい長いよね? ミマちゃんより長くない?」
「ハイ、私よりズっと長いデす」
「私も、見覚えないわね。寅ちゃん知ってる?」
キッチンから顔だけ出した寅之介は、思い切り眉間にシワを寄せて目を細めてから『知らねぇ』と言わんばかりに首を横に振り、すぐにキッチンへ戻っていった。
「ってことで、申し訳ないけどウチじゃわかんないわね」
「だよなぁ……すまん、手間かけた」
「別に良いわよ。こんな場末のスナックだもの、話題を提供してくれたものだと思うようにするわ。で? 戌井さん次は何飲む?」
「あぁ、そうだな……熊川さんのボトルで、ハイボール」
「あら、良いの? 密告しちゃうわよ?」
「構わねぇよ。熊川さんには許可もらってる」
なぁんだ、と少しつまらなさそうに呟いて、ママの木常が棚からサントリーの角瓶を取り出した。
慣れた手つきでハイボールを作り、親指と中指、薬指をくっつけ、人差し指と小指を立てて『キツネのハンドサイン』を作り、ハイボールのグラスを軽くつつく。
「ママ、今のは?」
「ん? うふふ、おまじないよ。ほら、メイド喫茶なんかでやるんでしょ?」
「あ、ママ私知ってるぅ、行ったもん。池袋のメイド喫茶」
テーブル席のチーママ伊立が楽しそうな声を上げる。
彼女の隣には、相変わらず楽しげに白ワインを楽しむ老人、鶴岡の姿があった。
「ね、ツルさん、やってみて良い? メイド喫茶のおまじない」
「へぇ、アレでしょ? こうやって、手でハートマーク作るやつだったっけ?」
「そうそう! 凄ぉいツルさん! 知ってるんだぁ? じゃあ一緒にやって? ほら、行くよぉ?」
伊立が小さな手で胸の前で可愛らしくハートマークを作り、子供のようなソプラノの声で明るい声を上げた。
「美味しくなぁれ、萌え萌えきゅん♪」
まるで孫娘の遊びに付き合う祖父のように、鶴岡も『きゅん♪』と合わせる。
もしもこの場に暴力団員がいたら目を疑ったことだろう。日本の東半分を統一した大親分が、子供のような小柄な娘の隣で、手でハートマークを作って『きゅん♪』をやってのけたのだ。
「……ウチの店でアレが似合うのは、チーママとミマちゃんくらいかしら?」
「ママ、私あれやるノ、ちょとハズかしい……」
「そうよねぇ? 大丈夫よミマちゃん。ヤな事はやらなくていいから。……って何? タヌさん? 何その残念そうな顔。ミマちゃんにやって欲しかった?」
「え? タヌキさん?」
「ああああいや、あの、違うの。その、別にそういうワケじゃなくってね。そのー……ちょっと見てみたかったなって」
「えええぇ……タヌキさん、ヤらしいデす……」
「ああゴメンゴメン! あの、ヤだったら良いから、ね? ゴメンねミマちゃん?」
本当に恥ずかしそうに顔を赤らめてうつむくなど、バイトとは言え夜の商売をしている女には珍しい仕草だ。
それだけに、かえって田貫にとっては新鮮なものだった。
「エと……おいシくなぁれ、もえもえ……きゅん」
消え入りそうな声で、うつむきがちに小さく手でハートを作り、田貫のハイボールグラスに手をちょんと触れさせる。
「み、ミマちゃん可愛い……ママ! ボトル追加お願い! ミマちゃんに売上つけたげて!」
「はいはい、タヌさんってホントチョロいわねぇ」
「良いの! ミマちゃんの『萌え萌えキュン』には角瓶1本分の価値は軽くあるでしょ! ね? ミマちゃん?」
「あ、あの、ありがとうございマすタヌキさん。でもあの……これ、何のおマじないデすか?」
「うん? いやぁ、私もメイド喫茶とか行ったことないけどさ? なんとなくアレだよね、美味しくなる気がするんだよね。ただの思いこみだろうし、実際には何も変わらないんだけどね。同じハイボールでも、ママのキツネのハンドサインよりミマちゃんの『萌え萌えきゅん』だったら、ミマちゃんのほうが美味しそうに思えるんだよ」
「ちょっとタヌさん? この追加ボトル、2万円くらい取るわよ?」
じろ、とタヌキを睨みながら、木常はボトルの首に『タヌキ』と名札をかけて棚に置く。
「うへぇ、ゴメンってばママ、ただミマちゃんを褒めただけだよぉ」
「あらぁ、やっぱりタヌさんも年増より若い子の方が良いのかしら?」
「そんな事ないってば、ママもキレイだよ」
「ま、そう言うことにしてあげるわ。でも思い込みって怖いわよねぇ。ほら、私のおまじないでハイボールが美味しくなるんだから。でしょ? 戌井さん?」
「ま、まぁ……だな」
戌井は苦笑を浮かべつつ、木常ママお手製のハイボールを一口飲み込んで、大きく息を吐く。
「おまじない、か……どうなんだろうな、そんなもん効くのかな」
「あら、何言ってるの戌井さん、おまじないは効くわよ? 呪いだってちゃんと効くんだから」
「呪い?」
「そうよ。ほら、基本はアレよ。お母さんの『痛いの痛いの飛んでけ』っていうの。思い込みの力って凄いわよ?」
残り半分ほどのハイボールをちびちびと口に運びながら、木常と戌井の話は続く。
「それにほら、昔から疑心暗鬼を生むっていうじゃない? 人間はね、信じたいものなら目に見えなくても信じるし、信じたくないものは見えてるものでも脳が認識しないの。人間弱いものなのよ」
「疑心暗鬼か……案外神だの仏だのってのは、そうやって『作られた』モンなのかもしれないな」
「さぁ、私は別に何かのカミサマを信じてるってワケじゃないからわかんないわね。ま、世界は広いんだし、『世界萌え萌えキュン教』とか出来ててもおかしくないわね」
「何だそりゃあ」
「うへぇ、凄い宗教だねママ」
「きっと毎食前のお祈りが『萌え萌えキュン』なのよ。どう?」
「絶対ヤだねぇ……あ、でもミマちゃんがやってくれるなら入信しようかな」
相変わらず緊張感のないスナックFOXの店内の空気で癒されたのか、この日戌井はジャネットではなく、木常に潰れるまで酒を勧められることとなった。




