18 紫煙の奥の光景
鵜殿宏和は、ゆっくりとタバコの煙を吐き出した。
新型MDMA、警察が『アムリタ』と呼ぶ薬物の成分も、大麻の成分も何も含まれていない、ただのタバコだ。
フィルターのすぐ近くまで火が近づいているのを見てから、今時珍しいガラス製の灰皿にタバコを押し付けて火を消して、ゆっくりと立ち上がる。
タワーマンションでもなんでもない、ごくごく普通の雑居ビルの一室。
幼い頃から宏和が過ごしてきた環境とさほど変わりのない、質素な部屋だった。
ダイニングテーブルがひとつに、椅子が4脚。
冷蔵庫と電子レンジ、そしてオーブントースター。
宏和が子供の頃と違っているのは、液晶の55インチのテレビとパソコンがあることくらいだ。
「烏丸さん」
『はい、教導師』
壁掛けの大きなテレビ画面に、非常に整った顔立ちの、白装束の女の姿が映し出された。
AIが生成した実在しない女、烏丸の姿だ。
「宏子は?」
『道の駅でお休みになっています。いつもとお変わりありません』
「そうですか。分かりました」
『他に、必要な情報はございますか?』
「あぁ、特に——いや待ってください。アムリタの卸先だった萬坊会から連絡がなくなりました。何か分かりますか?」
『承知しました。インターネットを検索します。——見つかりました。SNS上で、萬坊会に関する最新のポストが複数件ヒットしました。萬坊会は日本から完全撤退することになりました。上位組織であった中国の黄家会からの引き上げ命令があり、日本での構成員は全員が『処分』されたようです』
烏丸の声には、何の感情も抑揚もない。
事務的な言葉というものを具現化したとしたら、恐らくこうなるだろうというような話し方だ。
それもそのはずで、烏丸は鵜殿宏和の双子の姉、宏子が作り上げた高性能AIである。AIには感情がある『ふり』が出来るだけで、実際に感情のようなものを持ち合わせているわけではない。
「なるほど。次の『外注先』候補は?」
『お待ちください…………製造の外注先はかなり限られます。販売と拡散の外注先も、成約率があまり高くありません』
「そうですか、わかりました。では関東甲信越の範囲で、『成約』に至りそうな先をピックアップしておいてください。そろそろ休みますので」
『承知しました。ではいつも通り、SMSを使ってアプローチを試みます。おやすみなさい、教導師』
突然テレビの映像が切り替わり、ユーチューブの焚き火映像を延々と流すチャンネルに切り替わった。
宏和は質素な食器棚の上段から、ジャパニーズウィスキーとして海外でも人気な『竹鶴』を取り出し、バカラのグラスに注ぐと、ゆっくりとした動作でソファに腰掛けた。
一口だけ、度の強い蒸留酒のアルコールが喉を灼く感触を楽しんで目を閉じる。
鵜殿宏子、宏和の姉弟は二卵性双生児だ。
両親は、新興宗教の熱心な信者であった。
父親は収入の大半を献金のためにと教祖へ差し出し、そのために宏子も宏和も幼い頃から常に腹をすかせていた。
彼らの両親は、子どもたちの食費すら削って、今となっては政府から解散命令が出た団体へ際限無く金を注ぎ込み続けていた。
先祖を供養するための費用、教祖のありがたい言行録、幸福が『貯まる』というツボ、霊験あらたかな水晶で作られた数珠。
金の支払いが難しいときなど、宏子や宏和は教団の幹部に『供物』のように差し出された。
「主のお導き、か……よくもまぁ」
神の使徒、聖職者を名乗るものがおよそ手を出すべきではないような行為は、もはや宏和も回数を数える気にすらなれないほど繰り返されてきた。
特に幼い頃から際立った美少年であった宏和には、教団の幹部であるという男女が群がるようになった。
また、宏子も外見は整っていた上、恐ろしく内気で人に逆らったり抗ったりということが苦手な性格だったこともあり、週に6日は家に帰れないほど、教団の者たちに『供物』にされ続けていた。
結果、宏子は言葉を失った。
他人を見ると無条件で怯え、実の両親ですら恐怖の対象として捉えるようになった。
一方の宏和は、子供の頃から実に聡明であった。
少年趣味の教団幹部を言いくるめ、自分に最高の教育を提供させた。
学歴だけで言えば宏和は中卒である。だが、IQは147と非常に高く、メンサの会員でもある。
言語学、数学、情報工学、心理学、薬学について大学院で学ぶような内容を凄まじい勢いで吸収していった。
特に心理学と薬学においては、恐らく大学准教授レベルの知識を持ち合わせているであろう。
ごく最近まで薬学のレクチャーを受けていた某大学の准教授であった鷲崎という男は、大学の資材横流しが露見して大学を追われていた。
彼が現在、歓喜観音会の新型MDMAの開発と製造の総指揮を執っていることは、教団内でもごくごく一部のものしか知らない。
「この世に神も仏もありゃしない」
新興宗教のナンバー2とは思えない言葉を呟いて、ウィスキー竹鶴をまた一口飲み込んだ。
「あるのはただひとつ、大聖歓喜観音菩薩のみ、か」
55インチの大型テレビに映し出される焚き火の炎のゆらめきが、恐ろしく整った宏和の顔を怪しく照らし出す。
「烏丸さん」
『はい、教導師』
焚き火の映像が、再び不自然なくらい整った美女の映像に切り替わる。
「先日入信して、『上書き』が済んだ方がいましたね。確か、中学校の先生をしていた方でしたか」
『はい、鍔目亜希子さん、ですね』
「彼女と、ちょっと一杯飲みながら、大聖歓喜観音菩薩の慈悲について語り合いたいものです。読んでもらえませんか?」
『承知しました、すぐに』
再びテレビの映像が焚き火に切り替わる。
宏和が独りナイトガウン1枚の姿でウィスキーを味わっている部屋に、まだ20代なかばの若い女がやってきたのは、わずか15分後のことだった。
「やぁ鍔目さん。どうぞこちらへ。ウィスキーはお好きですか?」
宏和の表情はどこまでも優しく穏やかで、人の心を溶かしてしまうものだ。
すでに自分の過去の名前すら覚えていない若い女は、自分の帯を解きながら、ゆっくりと宏和へと歩み寄っていった。




