16 救いを求める声
警視庁西東京署を目立たない女が訪れたのは、雨の降る日の午後のことだった。
受付の前に歩み出た女は、どこか怯えたような顔と素振りで、消え入りそうな声で何事かを必死で訴えようとしていた。
が、受付の女性警察官と目を合わせることが出来ない。
じっと落ち着いて立っていることが出来ない。
声も小さく受付の者も、目の前の女が何を話しているのか聞き取ることが出来なかった。
非常に早口で、たどたどしく、要領を得ない言葉の羅列。
何度も聞き返す内に、受付の女性警官は苛立ちを隠せなくなっていた。
「あの、すみませんけどもうちょっとハッキリ話してもらえません?」
「ひっ……あ、あっ、あの、お、おと、弟がその、あの、こう、あの、大変で、わ、わたし、私もその、な、何、どうすれば——」
「ですから! 何にお困りなんですか!?」
「ひぃっ! ……あ、あっ……あ、あの、あ、す、すみ、すみません、すみません、ごめんなさい、すみません」
数分のやり取りの後、女は涙ぐんでしゃがみ込んでしまった。
さすがに、警察署に何らかの通報に来たであろう市民を、警察署の受付の者が怒鳴りつけて泣かせたとあっては、後々SNSでどれだけ叩かれるか分かったものではない。
「あ……あの、すみません。でもその、出来ればですね? 具体的にお困りの内容をお話頂けないと、警察でお力になれるかどうかもわかりませんからね?」
「……すみません……すみません、ごめ、ごめんなさい、わ、私なんかが来て、すみません……」
長い黒髪の、やたらとおどおどとした印象の声の小さな女は、目を伏せたまま繰り返しぺこぺこと頭を下げ、踵を返してゆっくりと出口へと歩いて行ってしまった。
結局この日、署を訪れた女は名前も何も書き記すことはなく、受付の警官も『今日も変なのが来たなぁ』としか考えることもなかった。
女は38歳に見えない若々しさ、というよりも垢抜けない幼さの残る容貌で、名を鵜殿宏子といった。
歓喜観音会において、事実上のナンバー2である教導師、鵜殿宏和の双子の姉である。
「はぁ……」
宏子が長い溜息を吐いて、地味な黒い傘を広げたちょうどそのタイミングで、長身な大神と戌井の2人が昼食をすませ署に戻ってきていた。
「ったく、だから俺はお前と一緒にメシに行きたくねぇんだよ」
「なによ、かき揚げくらいでケチケチしないでよ」
「かき揚げ蕎麦からかき揚げとったらただのかけ蕎麦だろうがよ。ったく大体お前、かき揚げ丼大盛り食っといて、その上俺のかき揚げ横取りするってどんだけ油でギトギトなん——」
よそ見をしながら歩いていた戌井の方が、無地の黒い傘に当たる。
宏子も傘が視界を遮って戌井と大神の姿に気づいていなかったせいで、まったくの無防備なところでぶつかってしまった。
「あうっ!?」
まるで交通事故で弾き飛ばされたかのように、宏子は派手に雨で濡れたアスファルトの上に倒れ込んだ。
「あぁっ! す、すんません! 大丈夫ですか!? 怪我は!?」
「ひぃっ!?」
宏子は長い前髪の隙間から怯えたような目で戌井を見上げ、どう聞いても悲鳴にしか聞こえない声をあげた。
「ちょっとワンちゃん! あんた何やってんの! すみません、大丈夫ですか? 立てます? ……あああスカートが汚れちゃって……手も擦りむいてますね? 救護室がありますんで、どうぞ中に」
「ひ、ひぃ、いや、いやっ!」
長身の大神よりも小柄ではあるが、恐らくは日本人の成人女性としては平均的な身長であろう。
やたら長い髪が特徴的で、前髪で顔が隠れ気味になってしまっている。
「すみません、クリーニングも手配を——」
「ご、ごめ、ごめんなさい! ごめんなさい! すみません! ごめんなさいっ!」
宏子は完全に怯えてパニックになったような声を上げると、大神の手を振り払って傘を拾い上げることもなく、雨の中を駆け足で走り去ってしまった。
呆然と、長い黒髪が見えなくなるまで立ち尽くした戌井の尻に、大神が容赦ない蹴りを入れる。
「あんた何やってんのよ、市民の安全を守る警察官が、市民に怪我させるってどういうこと!?」
「い、いや……しまったな……傘も置いて行っちまったし」
「どうすんのよ、これSNSとかで拡散されたら署長が謝罪会見するレベルの話になんじゃないの」
「まぁそりゃそうなんだけど……弱ったな……」
「弱ってる暇無いでしょ、とりあえず傘も保管しとかないと。熊川警部補に報告しなきゃじゃないの? あんたの上司なんだから」
「だな。あー、やれやれ……そもそもアレだ、お前が俺のかき揚げ取らなきゃこうはならなかったんだよ」
大神が拾い上げた傘を受け取ると、戌井は意外なほど几帳面に傘を畳み始める。
その戌井の手がぴたりと止まる。
すぐ側で大神が『だからアンタはデリカシーってものが無いっていうか』『顔面凶器も程々にしろってのよ』『そんなんだから彼女に逃げられんじゃないの』とぼやいているのにもまったく反応せず、戌井はじっとその手に持った傘の持ち手を凝視していた。
「ちょっとワンちゃん、聞いてんの!?」
「なぁ大神、これなんて読む?」
「は? 何? どれよ『これ』って」
大神が、戌井が指さす先をじっと凝視する。
傘の持ち手のカーブの部分には、恐らくテプラで作られたであろうシールが貼られている。
「何? 名前? UDONO? ……うどん?」
「違ぇよバカ。ウドノだろどう見ても」
「ウドノ……鵜殿!?」
がば、と勢いよく大神が振り返る。
が、その視線の先にあるのは、ただ雨の降る街と、せわしなく行き交う車。
ついさっきこの傘を落とした、髪の長いやたら気弱そうな女の背中は、もうどこにも見えなかった。




