13 どこにもいない
熊川と戌井は、カウンター席の最も奥でテーブルに近い席に腰を下ろしていた。
キープしていたボトルのウィスキーを水割りにして、チーズの盛り合わせといっしょに喉に流し込んでいく。
「なるほどねぇ、昨日のお嬢さん、そりゃあ災難だったね」
「すみません、警察内部での情報共有が不足していました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いやいやクマさん、そう言いなさんな。オオカミさんだったっけ? その子は間違ってはいないよ。まぁヤクザ者には生きづらい世の中だけど、それだけカタギの素人さんたちが生きやすくなったことだろうから、それはそれは良いことなのかも知れないねぇ」
相変わらず白ワインを美味そうに飲んでいる鶴岡は、今日は両脇にママの木常とチーママの伊立を侍らせていた。
アルバイトのミマは今日は大学の用事でバイトを休み、釣られるかのように田貫は店に顔を出していない。代わりに、カウンター席では馬渕が熟練嬢のジェニーの接客を受けている。
「ひとまず、僕の方でも色々と情報を調べてみたんだけどねぇ、基本的に歓喜観音会の『道場』の場所は時折移動してるみたいだね。奥多摩の道場もプレハブだったんでしょ? どうも仮設とかいうか、簡易的な建物を建てては移動させ、っていうのを繰り返してるっぽいよ?」
「なるほど……確かに奥多摩の建物もプレハブでしたね。あれは仮設ということだったんでしょうか」
「そうだねぇ。どうも信者の保有する土地だったり、信者が経営する法人の建物だったりね、そういう場所を使って拠点として使ってるみたいだねぇ」
歓喜観音会の奥多摩道場で押収されたものは、ほとんどが机と椅子といった什器類で、信者名簿や教団上層部につながる情報の類はほぼ何も見つからなかった。
唯一見つかったのは、奥多摩道場の責任者である猪俣の名前くらいしか記されていない書類が数枚。
教団のナンバー2と目されている教導師、鵜殿宏和と、問い合わせ窓口されている『担当者烏丸』についても、名前以外はほとんど分かっていない。
「あの、戌井さん、僕ここにいても大丈夫なんですか? なんかその、捜査についての話っぽいですけど」
カウンター席で1つ開けて座る馬渕は、申し訳なさそうに視線を戌井に向けてきた。
会話の内容は明らかに犯罪捜査の情報である。一般人には秘匿されるべきものであることは間違いないはずだ。
「いや、陽平くんはある意味関係者だからな。親父さんの件も無関係じゃない。教祖の鳩ヶ谷妙見がどこに潜んでいるかの情報もないのが何とも口惜しいところだな」
「鳩ヶ谷妙見……ですか。それはカラスマってやつとは別なんですよね」
「あぁ、烏丸というのは、歓喜観音会の窓口になっている女だな。何時電話しても、夜中でもいつでも同じやつが応対に出るひょっとしたらボイスチェンジャーをつかった別人かもしれん。ただ、不自然なくらい応対が早かった。データベースなりなんなりで応対した履歴を検索している、というような印象もなかった」
「ねぇ戌井さん、その烏丸っていう人、今電話してみたら? 捜査協力のため鳩ヶ谷妙見の居場所を教えてほしいって」
ママの木常の提案にも、戌井は首を軽く横に振る。
「その質問もしてみた。でもな、どういうわけかあの猪俣ってやつと同じ答えだったよ。『妙見様はどこにもおられない。でもどこにでもいる』の一点張りだ」
「えー何それぇ、意味わかんない」
チーママの伊立は鶴岡の白ワインを当然のようにのみながら、あまり実感の湧いていなさそうな言葉を平然と口にする。
何しろ伊立は純粋な武力であれば、間違いなくスナックFOXでもナンバーワンの武闘派である。身長148センチという身長に童顔という、小学生並の幼い外見に似合わず、合気道錬士五段の腕前で、過去にへし折った暴れる酔客の骨は数知れずである。
「チーママでもクスリと洗脳を受けちゃったら危ないからねぇ。特にほら、高校生なんかのコドモをターゲットにクスリも配ってるみたいだし、気をつけないとねぇ」
「やだぁ、ツルさん、私怖ぁい」
「そうだねぇ、クスリは怖いからね。僕もクスリでおかしくなってるチーママを見るのは嫌だよ?」
「私そんなの絶対ヤだぁ。どれだけやってもお酒までかなぁ。タバコもヤだし」
「そうそう、それが良いよ。タバコなんて毒でしかないんだから」
鶴岡の言葉に、なぜか苦笑を浮かべる戌井は薄い水割りを一口飲み込む。彼はつい先日から、人生で4回目となる禁煙を始めたばかりだ。
「あら、戌井さんってタバコやめたの? 絶対その方が良いわよ。ご飯もおいしくなってるんじゃない?」
「いや、まだそこまでの変化はないんだけど……ニコチンの離脱症状だろうな、食後にとにかくタバコを吸いたくなる。一応ニコチンガムなんかは外来で出してもらってるんだけどな。所詮まやかしと言うか、実体のないタバコを吸わされてるみたいでどうにも満たされないな」
からん、と音を立てて、ジェニーがカウンターの自分の水割りのグラスを置くと、まるで胸の谷間を強調するかのように腕を組む。
「実体がない、ねぇ……まるでタバコの煙よね、その鳩ヶ谷妙見っていうのも。でも早く捕まえてもらわなきゃ、真理亜の学校もなかなか登校再開できなさそうだし、私たちも怖いわ」
「そうそう、あの、僕も最近駅とかでは見ないんですけど、ネットの書き込みでたまーにそのアムリタってクスリのポスト見かけるんですよ。ほら」
馬渕はスマホを慣れた手つきで操作するとSNSの画面に切り替えて戌井と熊川の目の前に差し出した。
「DX@3A1? ……なんだ、何の暗号だ?」
「あぁ、これ『DXの薬剤、1つ3万円』の略です。DXが新しい合成麻薬で、@が1つあたり、3A1は、『渋沢栄一3枚』なんで万札、3枚、それで3万円」
「ほう? マブちゃん、それ僕にも見せてくれないかなぁ?」
「あ、はい。どうぞ」
鶴岡は馬渕からスマホを受け取ると、その画面を写真で撮影し、意外なくらいに慣れた手つきで自らのスマホを操作し始めた。
「うん、ありがとう。いやぁ、最近こういう暗号と言うか、意味が分からない言葉でやり取りするんだねぇ。クマさんもワンちゃんも大変だ。時代の流れってやつだねぇ」
この時、鶴岡のすぐ隣で密着して座っていたチーママだけが、鶴岡が自分のスマホから写真を添付したメッセージを発信したことに気づいていた。
発信先は『サメちゃん』という名前で登録されている相手であったが、その相手が八王子の南側を牛耳る鮫原組の組長であることは、誰も知らないことであった。




