12 知らなかった
「んもぉ、何なんすか一体! そういう大事なこと言っといて欲しかったっすよぉ!」
西東京署の給湯室で、たまたま鉢合わせた刑事課の熊川警部補に突っかかっているのは、生活安全課の大神巡査長だ。
彼女はつい昨日、暴力団組長が出入りしていると見られるスナックに乗り込んで事情聴取を、と意気込んでいた。
場合によっては摘発か、と考えていたのだが、なんと途中で熊川から電話が入ってしまったのだった。
「いや、この件は署内でも刑事課にしか知らせて無かったんですよ。すみません」
苦笑いの熊川は、巨体に似合わない小さな缶コーヒーを持ったまま、大神に軽く頭を下げて見せる。
「おまけに? あの店にいたあの小さい爺さん、あれが『あの』鶴岡慎太郎ってマジすか」
「えぇ、『あの』東日本のドンと言われて、『西の亀、東の鶴』と呼ばれて日本の極道の半分を束ねていたと言われる、鶴岡会の初代会長、鶴岡慎太郎さんです。彼は今回、『善意の一般市民の1人』として警察に協力してもらうことになっています」
「や、あの、確かに引退したとはいえ、『あの』鶴岡慎太郎っすよ? 一般市民っすか?」
「はい。彼はもう足を洗っている立場ですからね。それに、『あの』鶴岡さんが自分を一般市民だと言っているということは」
「ということは……?」
「彼はもう、いわゆる反社に直接関わる意思がない、ということと、警察に協力する用意がある、という意思表示だと解釈すべきでしょう」
警察官としては、末端の反社構成員程度ではなく、数千の暴力団員を束ねていたような人物を『一般市民』として扱うのには強い抵抗を持たざるを得ない。が、だからといって『足を洗ってもお前は一生反社だ』と言うことも出来ないというのが実情だ。
建前上、日本は『やり直すことが許容される』社会でなければならない。
実情としては極めて難しいことであるとしても、治安と生活の安全を守る立場である警察が、『一度でも反社と関わったものは、例え関わりと一切断ち切ったとしても一生反社として扱われ、その家族も同様である』などという立場をとってはならない。
いわゆる暴対法の『元暴5年条項』では、暴力団を離脱して5年を経過しない間は、あくまでも『元ヤクザ』として扱われる。
銀行口座開設にクレジットカード作成、賃貸住宅や生命保険、携帯電話に自動車ローンの利用が制限されるというものだが、裏を返せば5年を経過すればこの制限を受けない。
鶴岡が、鶴岡会を引退した際も、警察や西の亀多川会に対しても『引退届』を大っぴらに公開し、それ以来実際に鶴岡会の運営には携わっていない。
それが今から10年ほど前のこと、『世紀の手打ち』から5年後のことだった。彼は手打ちから5年をかけて、東日本の組織をしっかりと統制し支配下の組の組長全員から『麻薬を扱わない』という誓約書を提出させた後に引退した。
「鶴岡さんは引退してから10年経過していますからね。彼は『一般市民』ですよ」
「でもあからさまに影響力ありません?」
「過去の人脈までは、警察が関与できる範疇じゃないですからね。ただ、生活安全課にも話は行っていますよね、『アムリタ』の話です」
「新型合成麻薬、ですよね?」
「そうです。現状、あれが首都圏全域で発見されています。これが日本全国に蔓延するのを食い止めることが出来るか否か、といった瀬戸際なんです。警察としてもなりふりかまっていられないんですよ」
「いやぁ、でも……昭和のときに、警察と暴力団の癒着とか色々問題になったんですよね? 私まだ生まれてないっすけど」
「そうですね。そこは慎重に対応しないといけません。ただ、今は歓喜観音会の教祖、鳩ヶ谷妙見の行方がわからない状況です。情報はあればあるだけ良い。そこから取捨選択して、どうやって真相にたどり着くのかは、我々警察の実力次第というところですよ」
「そういうモンすかぁ……使えるモンは何でも使えってことっすね」
「まぁ、そういうことです」
熊川は苦笑を浮かべてコーヒーを飲み干すと、軽々とスチール缶を握りつぶす。握力が100キロを超える熊川にとって、アルミ缶もスチール缶も大きな違いはない。
「警察官としては不本意だったとしても、私たちのやるべきことは2つです。失踪者の捜索と、新型MDMA『アムリタ』の撲滅です。そのためにも、教祖鳩ヶ谷妙見を探し出さなければいけません」
「そこはワンちゃんが頑張ってる、って感じっすか」
「そうですね。戌井くんはあちこち探し回っていますが、正直なところ教祖の行方については何も情報がありません。不自然なくらい、本当に居場所に関する情報がないんです」
「不自然なくらい、っすか……」
熊川のジャケットの内ポケットで、スマホが静かに振動する。
「熊川です。戌井くん、どうしました」
熊川が持つとまるでトランプのカードのように見えてしまうスマホを耳に当て、熊川はピクリと片方だけ眉を跳ね上げる。
「なるほど、『善意の一般市民』からの情報ですね。わかりました。では今日夜に確認に伺うとしましょうか。戌井くんも同席して下さい。19時に現地で落ち合いましょう」
ふぅ、と少し楽しげに口角を上げてから、深呼吸のようなため息を漏らしつつ、誰にともなく呟いた。
「やれやれ、今日も残業ですね」




