第8話「終わってほしい?」
「――て」
ケンジの鉛筆が、止まった。
「て、だ。最後の字、て」
ケンジの店の奥の、無線の本が積んである机。ぼくのノートと、表紙の裏の一覧表をならべて、ケンジは朝からずっと、点と線を字に置き換えていた。ぼくは横で、消しゴムを握りしめていた。なんのために握っていたのか、自分でもわからない。
「読むぞ」
ケンジは、つばを飲んだ。
「き、こ、え、て、る、な、ら。へ、ん、じ、し、て」
ぼくの背中を、冷たいものが落ちていった。
ノートの最後のページを、開いた。ふるえた小さい字。きこえてるなら、へんじして。ゆうべ、勝手に浮かんでいた字と、山の灯の点滅を訳した字が、一字ちがわず、同じだった。
「……誰かが部屋に入って書いたんじゃ、ねえんだ」ケンジの声は、感心しているみたいで、こわがっているみたいだった。「信号が、紙の上で、字になったんだよ。おまえのノート、受信機になってる」
「なんだよそれ」
「わかんね。けど、うちのじいちゃんの鉱石ラジオだって、電池なしで鳴るんだぜ。紙と鉛筆の粉で受信できたって、おれはもう、おどろかねえ。……そう考えたほうが、まだ怖くねえだろ」
おどろけよ、と思った。でも、ケンジの言いかたで、少しだけ、こわさの形が変わった。部屋に誰かが入ったんじゃない。それだけで、ゆうべの布団の中のぼくが、すこし、救われた。
昼前に、みんなが店に集まった。ノートは、六人の真ん中に置かれた。
「へんじ、するの?」
ミナが、まっさきに言った。しない、の側の声だった。
「話しかけちゃだめ。ナツメが言ったでしょ。返事って、話しかけることじゃないの」
「でもさ」とトシが身を乗り出した。「これ、放送のやつと、ちがくね? 放送の声は、きれいだろ。誘ってくるだろ。こっちは――たすけてって言ってるみたいじゃん。きこえてるなら、へんじして、って。おれ、こういうの、ほっとけねえもん」
「たすけて、とは書いてない」とケンジが言った。
「書いてなくても、わかるだろ。ふるえてんだぜ、字が」
ぼくは、だまっていた。トシの言うとおりだと、思っていた。思っていたけど、ゆうべの自分の考えも、思い出していた。さみしい声かもしれない、と思ったとたん、近くなった。同情したら、まけだ。この字にも、同じことが言えるんじゃないのか。ふるえた字は、ほんとうにふるえているのか。ふるえて見せているだけじゃないのか。
みんなが、ナツメを見た。
ナツメは、ノートを、長いあいだ見ていた。それから、言った。
「……この字は、たぶん、あっちの子」
「あっちの子?」
「放送の声じゃない。もっと、弱い子。でも」ナツメは、ノートから目を上げなかった。「返事は、まだ、しないで。返事はね、はんぶん、話しかけることだから。……それに、弱い子の声は、つよい子に、きかれてるかもしれないから」
弱い子。つよい子。ナツメのことばは、いつも、説明の手前で止まる。でも、今のは、わかった。山の上の誰かがぼくらに届くなら、その信号は、あの放送の主にも、届いているかもしれない。ぼくらが返事をしたら、それも。
「保留」とケンジが言った。「返事の文面は考えとく。送るかどうかは、また決める。……それよか、トランシーバーの電池がやべえ。トシ、おまえんち、単三あったろ」
「おう、取ってくる。ついでにアイス、冷凍庫に隠してあるやつ、持ってきてやるよ」
トシは立ち上がって、店の戸口で、一度ふりかえった。
「なあ。おれはさ、返事、したほうがいいと思うぜ。たすけてって言われて、きこえないふりすんの、いちばんかっこわりいもん」
そう言って、にっと笑って、出ていった。前歯の隙間が見えた。
トシの家は、ケンジの店から自転車で五分もかからない。昼間だし、道はぜんぶ商店街の中だし、誰も、止めなかった。ぼくも、止めなかった。
*
五分して、ケンジの腰のトランシーバーが、ざ、と鳴った。
――こちら秘密局。なあ、ケンジ。
「どうした。電池あったか」
――それがさ。……なんか、変な女、いる。
五人ぶんの視線が、トランシーバーに集まった。さっきまで六人だった店の奥が、急に広くなった気がした。ケンジがマイクのボタンを、強く押した。
「女? どこだよ」
――魚屋の裏の路地。入口んとこに、立ってる。こんな暑いのに、白いマスクしてんの。……あれ、大人だよな? 背、たけえけど、なんか――
「トシ。そこ、通んな。回り道しろ」
――え、なんで。だいじょうぶだって、道の反対がわ歩くから。
ペダルを漕ぐ音。風の音。トシの鼻歌が、少し。それから、音が、止まった。
――……あれ。
「トシ?」
――今、なんか言った。あの人。
トランシーバーの奥で、しゅう、と、息のこすれる音がした。布ごしの息だった。
「聞くな。行け。漕げ」
――……え? おれ?
ケンジが立ち上がった。ミナも立ち上がった。トランシーバーの奥で、トシの声が、少し遠くなった。マイクから口が離れたんだと、わかった。誰かと、しゃべっている。
――……終わってほしいかって? 夏休みが?
ケンジが叫んだ。「答えるな!!」
――んなの、決まってんじゃん。
トシの声は、笑っていた。いつもの、音より先に顔に出る笑いが、声だけでもわかった。たすけてって言われて、きこえないふりすんの、いちばんかっこわりい。トシは、そういうやつだった。聞かれたら、答えるやつだった。
――終わってほしく――
ざざ、と雑音が走った。
トランシーバーは、それきり、砂の音だけになった。ケンジが何度もボタンを押した。こちら本局。応答せよ。トシ。トシ! 砂の音は、砂の音のままだった。
魚屋の裏まで、走った。五人で走った。こんなに速く走ったのは、はじめてだった。
路地には、誰もいなかった。
トシの自転車が、倒れていた。前輪が、まだ、ゆっくり回っていた。そのそばに、トランシーバーが落ちていた。拾い上げると、まだ、ぬくかった。ラムネの筒が一本、転がって、ぶどう色の粒が、点々と散らばっていた。
マスクの女は、いなかった。トシも、いなかった。
日が暮れるまで、探した。魚屋の裏も、商店街も、川原も、トシんちも。トシの母さんは、店番をしていた。トシは? と聞くと、母さんはにっこりして言った。
「あの子なら、遊びに行ってますよ。夕飯までには帰るでしょ」
*
トシは、夕飯どきに、帰ってきた。
ケンジの店の前で、ぼくたちが暗くなった道を見張っていたら、向こうから自転車が来た。トシだった。トシが、片手をあげた。
「わりいわりい。迷子になってた」
ミナが、泣きそうな声で、ばか、と言った。ケンジがトシの肩を、げんこつで殴った。心配しただろ、と言った。声が震えていた。
トシは、殴られた肩を押さえて、言った。
「……なんで?」
ケンジの手が、止まった。
トシなら、わりい、って言う。考えるより先に、言う。それがトシだった。トシは、なんで、と言った。それから、ぼくたちの顔を順番に見て、にっと笑った。
笑い声が、あとから来た。
顔が笑ってから、半拍おくれて、ははっ、と声が出た。
「腹へったな。ラムネ食おうぜ」
トシはポケットから、ラムネの筒を出した。路地に散らばっていたはずの筒を。そして、左手の親指で、蓋をはじいて開けた。
左手だった。
ぼくは、ミナを見た。ミナも、ぼくを見ていた。ケンジは、トシの顔を、じっと見ていた。ナツメは――ナツメは、一歩、うしろに下がっていた。白いワンピースが、店の明かりのとどかない、暗がりに入った。
「なに? みんな、へんな顔して」
トシが、笑った。顔が先で、声があと。目が、まるかった。まるくて、ぬれていて、金魚鉢のガラスみたいに、店の明かりを、そのまま映していた。
「……なんでもねえよ」
ケンジが、言った。言うのに、すごく時間がかかった。
*
その夜、ぼくは机のノートを開いた。
開いただけで、なにも書けなかった。返事の文面を考えとく、とケンジは言った。ぼくが考えていたのは、ちがうことだった。きこえないふりすんの、いちばんかっこわりい。トシの声が、耳に残っていた。トシは、返事をした。マスクの女の問いに、まっすぐ、返事をした。それで、いなくなった。
返事をするって、そういうことなんだ。
十二時すぎ。町内放送が、ジ、と鳴った。
――こちら、八月三十二日。七日目です。
きれいな声が、うたうように言った。いつもより、機嫌がよかった。
――きょうは、あたらしいおともだちが、きました。
ぼくは、布団の中で、動けなかった。
――みんなも、はやく、おいでね。
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