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八月三十二日のラジオ 〜夏休みが終わらない町で、十年前に消えた子どもたちの声が聞こえる〜  作者: 虎野屋


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第9話「すくえない」

それは、パン屋と燃料屋のあいだに、立っていた。


金魚すくいの屋台だった。赤と白のテントの布が、内側で誰かが息をしているみたいに、ゆっくり膨らんでは、しぼんでいた。台の上に、四角い水槽と、ならんだ金魚鉢。売り子は、いない。客も、いない。ただ、水のにおいがした。夏祭りの、あの、ぬるい水のにおい。


きのうまで、ここは、ただの空き地だった。


その朝、ぼくは、窓の音で目がさめたのだった。


かつ、かつ。


小石だった。カーテンをあけると、まだ青い朝の道に、自転車が四台、いた。ケンジと、ミナと、アキラと、ナツメ。全員そろって、ぼくの窓を見上げていた。


ぼくだけ、最後だった。


音をたてずに家を出て、自転車を出した。「なんでおれが最後なんだよ」と小声で言ったら、ケンジが真顔で答えた。


「おまえんちが、いちばん遠い」


「うそつけ。アキラんちのほうが遠いだろ」


「アキラは小石二個で起きた。おまえ、六個。……ウチの砂利、減ったら減りっぱなしなんだからな」


うしろで、ミナが、ふっ、と笑うのが聞こえた。笑ってから、あわてて口を閉じたのも、わかった。こんな朝なのに。こんな朝だから、かもしれなかった。


五台で、走り出した。


夜明け前の町は、しんとしていた。大人はまだ、きのうを繰り返す準備をして、眠っている。信号は点滅で、道はぜんぶ、ぼくたちのものだった。ペダルの音と、チェーンの音だけが、青い道に響いた。


「なあ、ミナはどうやって起こしたんだよ。まさか小石」


「投げてない」とケンジが言った。「投げる前に、窓があいた」


「起きてたの」ミナは、前を向いたまま言った。「……ラジオ体操の音で」


「ラジオ体操、先週終わったろ」


「終わったのに、鳴るのよ。となりの庭で。毎朝、六時に」


第一、第二、と、ミナは小さく言った。第二までやるのが、こわいのよ。誰も庭にいないのに。ぼくは笑いそうになって、笑っていいのかわからなくて、ハンドルをにぎり直した。


「ナツメは? おまえんち知らねえのに、どうやって」


アキラが聞いた。ナツメは、いちばんうしろを、音もなくついてきていた。ワンピースで自転車をこいでいるのに、ナツメの自転車だけ、チェーンの音がしない気がする。


「神社の前、通ったら、いた」とケンジが言った。


「いたって、おまえ」


「いたんだよ。もう、座ってた」


「……なんで、わかったんだ」


アキラが、ナツメに聞いた。ナツメは、少しだけ考えて、答えた。


「水の、におい」


それきり、誰もしゃべらなかった。ぼくは、鼻から息を吸ってみた。朝の町のにおいしか、しなかった。


坂を下った。スピードが出て、Tシャツが風でばたばた鳴った。ケンジが立ちこぎで前に出て、アキラがすぐ抜き返した。ふたりとも、無言だった。無言で、本気だった。ばかだなあ、と思った。思いながら、ぼくも立ちこぎになっていた。ミナが「ちょっと」と言って、言いながら、ちゃんとついてきていた。


ほんの、二分か三分だった。


町にぼくたちしかいなくて、道がぜんぶぼくたちのもので、風があって、それだけの時間だった。トシがいたら、いちばん前を走ったと思う。振り向いて、おせーぞ、と笑ったと思う。


商店街の入口で、ケンジがブレーキをかけた。


自転車を降りて、ケンジは、それきり黙った。さっきまで競争していた背中が、また、寝ていない背中に戻った。ぼくたちは、自転車を押して、歩いてついていった。


パン屋と燃料屋のあいだに、それは、立っていた。


「……眠れなかったんだよ。あいつが――あれが、うちに来たから」


ケンジが、屋台から目を離さずに、言った。ゆうべ、偽物のトシは、ケンジの店に来たらしい。いつもの時間に、いつものように、無線の話をしに。ケンジの母さんは、トシくんいらっしゃい、と麦茶を出した。あれは、麦茶を飲んだ。うまそうに。ケンジは二階に逃げて、朝まで、天井を見ていた。それで、明るくなる前に、家を出て、みんなを起こしに回った。


「祭りは、先週、終わったよな」


ケンジの声が、かすれていた。ぼくたちは、屋台に近づいた。近づいちゃだめだと、頭のどこかで声がした。ナツメの声に似ていた。それでも、近づいた。


水槽の水は、黒かった。


墨を流したみたいに黒くて、なのに、金魚の赤だけが、ぽつ、ぽつ、と見えた。金魚は、泳いでいなかった。ぜんぶ、止まっていた。ひれの先まで、止まっていた。


台のはしに、ポイが置いてあった。針金の輪に、白い紙を張った、あの、金魚をすくう網。新品の紙が、五枚ぶん、きちんと重ねてあった。お椀もあった。店番のいない屋台が、店開きの支度だけ、きちんと整えて、待っていた。


いちばん手前の金魚鉢に、ぼくは、目を落とした。


黒い水の向こうに、顔があった。


トシの顔だった。


体は、なかった。顔だけが、水の底から、ぼくたちを見上げていた。目が合った。トシの口が、動いた。何度も、何度も、同じ形に動いた。水の中だから、声は、聞こえなかった。


でも、口の形で、わかった。


――たすけて。


「トシ!!」


ケンジが、鉢に飛びついた。両手で抱えて、持ち上げようとした。鉢は、動かなかった。台に置いてあるだけに見えるのに、根が生えたみたいに、動かなかった。ケンジは鉢のふちに手をかけた。水に、手を入れようとした。


「だめ!!」


ナツメが、叫んだ。


はじめて聞く、ナツメの大声だった。ナツメは走ってきて、ケンジの腕を、両手でつかんだ。白い顔が、もっと白くなっていた。


「さわっちゃだめ。その水に、さわっちゃだめ」


「なんでだよ! トシが、いんだよ! ここに!」


「さわったら、つかまるの」


ナツメは、ケンジの腕をつかんだまま、黒い水を見た。見て、すぐ、目をそらした。のどの奥で、小さく、えずくような音がした。


「その水は、あっちの水。ゆびの先でも、入れたら、むこうは、はなさない」


ケンジの腕から、力が抜けた。抜けたけど、鉢からは、離れなかった。トシの顔は、まだ、こっちを見上げていた。たすけて。たすけて。口だけが、動き続けていた。


「じゃあ、これは」


アキラが、低い声で言った。台のはしの、ポイを指していた。


「これで、すくえば、いいのか」


ナツメは、首を、横に振った。ゆっくり、振った。


「それは、お店の、道具だから」


「……どういう意味だよ」


「お店の道具で、あそんだら」ナツメは、ことばを、一つずつ、置くみたいに言った。「お客に、なっちゃう」


お客。その言いかたが、へんに、こわかった。お化けとか、おにとか、そういうことばより、こわかった。お客は、招かれる。お客は、もてなされる。お客は――帰してもらえるとは、かぎらない。


「すくえたら、どうなんの」ミナが言った。「トシ、すくえたら、戻るの?」


「わかんない。でも、たぶん、すくったぶん、はらうことになる」


「はらうって、なにを」


ナツメは、答えなかった。答えない、が、答えだった。


ぼくは、ポイの白い紙を見た。破れてもいない、まっさらな紙。すくえそうだった。手をのばせば、三十秒で、トシをすくえそうだった。それが、いちばん、むごかった。できそうに見えることが。網一枚、水一すくいの向こうに、トシがいるのに、その一すくいが、できない。


すくえない。


「……ふざけんなよ」


ケンジが、言った。鉢のふちを、にぎりしめていた。


「おれが、行かせたんだ。電池、取ってこいって。おれが言った。おれが、無線で、聞くなって言ったのに、切らなかった。つないだままにしたから、あいつ、答えちまったんだ。おれが――」


「ちがう」


アキラだった。アキラは、ケンジの襟首を、うしろからつかんで、鉢から引きはがした。ケンジがよろけて、アキラの胸に、背中からぶつかった。アキラは、そのまま、言った。


「おまえだけじゃねえ。おれも止めなかった。みんなだ」


ぼくも、止めなかった。その一文だけが、ぼくの中で、何度も鳴った。


そのとき、商店街の入口のほうから、声がした。


「あれ? おまえら、こんな朝っぱらから、なにしてんの」


偽物が、立っていた。


買い物かごを下げたトシの母さんの横で、トシの顔をして、トシの声で、笑っていた。トシの母さんは、屋台のすぐ横を通ったのに、一度もそちらを見なかった。きのうと同じ足取りで、八百屋のほうへ歩いていく。偽物だけが、そこに残った。


「金魚すくい? いいなあ。おれも、やろっかな」


鉢の底で、本物のトシの口が、動きを止めた。


止めて、それから、今までとちがう形に、動いた。ゆっくり、はっきり、一音ずつ。


――に、げ、ろ。


ぼくたちは、屋台の前から、離れた。走らなかった。走ったら、あれも走ってくる気がした。


歩きながら、ぼくは一度だけ、ふりかえった。


偽物は、屋台の前に立って、黒い水槽を、のぞきこんでいた。すると、水の中で、止まっていた金魚たちが、いっせいに動いた。すう、と、偽物のいる側のガラスに集まって、口を寄せた。餌の時間の、池の鯉みたいに。


偽物は、のぞきこんだまま、動かなかった。


ぼくは、角を曲がるまで、目が離せなかった。長かった。ずいぶん長かった。そのあいだ、あれは、一度も、まばたきをしなかった。


朝の風で、ぼくの目は、もう乾いてしょぼしょぼしているのに。


金魚には、まぶたが、ない。


   *


神社の石段まで戻って、五人で、座った。


長いあいだ、誰も、しゃべらなかった。蝉が鳴いていた。ケンジは、両手で顔をおおって、そのまま、動かなかった。泣いているのか、泣いていないのか、わからなかった。わからないままに、しておいた。


口をひらいたのは、ケンジだった。


「……返事、送るぞ」


顔をおおったまま、ケンジは言った。


「山の上のやつ。弱い子。ナツメ、言ったよな。放送の声とは、べつのやつだって。……あいつなら、なんか知ってるかもしれねえだろ。あの屋台のことも。すくいかたも。はらいかたも」


「危ないよ」とミナが言った。「返事は、はんぶん、話しかけることなんでしょ。つよい子に、聞かれるかもしれないんでしょ」


「知ってるよ。危ねえのは、知ってる」


ケンジは顔から手を離した。目が赤かった。赤い目のまま、ケンジはぼくたちを順番に見た。


「けど、きこえないふりすんのは、いちばん、かっこわりいんだと」


トシのことばだった。トシのことばを、ケンジが言った。


ミナは、なにか言いかけて、やめた。やめて、うつむいてそれから顔を上げた。


「……文面は、みんなで考える。一文字でも、まちがえたくないから」


ナツメは膝を抱えて、ずっと黙っていた。黙ったまま、小さくうなずいた。うなずいてから、ひとりごとみたいにつけ足した。


「みじかく、ね。……ながい話は、とどく前にきかれるから」


ぼくはポケットの中のノートの角をにぎった。


白い紙。鉛筆の粉。点と線。トシひとり、すくえないぼくたちにはそれがぜんぶだった。

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