第9話「すくえない」
それは、パン屋と燃料屋のあいだに、立っていた。
金魚すくいの屋台だった。赤と白のテントの布が、内側で誰かが息をしているみたいに、ゆっくり膨らんでは、しぼんでいた。台の上に、四角い水槽と、ならんだ金魚鉢。売り子は、いない。客も、いない。ただ、水のにおいがした。夏祭りの、あの、ぬるい水のにおい。
きのうまで、ここは、ただの空き地だった。
その朝、ぼくは、窓の音で目がさめたのだった。
かつ、かつ。
小石だった。カーテンをあけると、まだ青い朝の道に、自転車が四台、いた。ケンジと、ミナと、アキラと、ナツメ。全員そろって、ぼくの窓を見上げていた。
ぼくだけ、最後だった。
音をたてずに家を出て、自転車を出した。「なんでおれが最後なんだよ」と小声で言ったら、ケンジが真顔で答えた。
「おまえんちが、いちばん遠い」
「うそつけ。アキラんちのほうが遠いだろ」
「アキラは小石二個で起きた。おまえ、六個。……ウチの砂利、減ったら減りっぱなしなんだからな」
うしろで、ミナが、ふっ、と笑うのが聞こえた。笑ってから、あわてて口を閉じたのも、わかった。こんな朝なのに。こんな朝だから、かもしれなかった。
五台で、走り出した。
夜明け前の町は、しんとしていた。大人はまだ、きのうを繰り返す準備をして、眠っている。信号は点滅で、道はぜんぶ、ぼくたちのものだった。ペダルの音と、チェーンの音だけが、青い道に響いた。
「なあ、ミナはどうやって起こしたんだよ。まさか小石」
「投げてない」とケンジが言った。「投げる前に、窓があいた」
「起きてたの」ミナは、前を向いたまま言った。「……ラジオ体操の音で」
「ラジオ体操、先週終わったろ」
「終わったのに、鳴るのよ。となりの庭で。毎朝、六時に」
第一、第二、と、ミナは小さく言った。第二までやるのが、こわいのよ。誰も庭にいないのに。ぼくは笑いそうになって、笑っていいのかわからなくて、ハンドルをにぎり直した。
「ナツメは? おまえんち知らねえのに、どうやって」
アキラが聞いた。ナツメは、いちばんうしろを、音もなくついてきていた。ワンピースで自転車をこいでいるのに、ナツメの自転車だけ、チェーンの音がしない気がする。
「神社の前、通ったら、いた」とケンジが言った。
「いたって、おまえ」
「いたんだよ。もう、座ってた」
「……なんで、わかったんだ」
アキラが、ナツメに聞いた。ナツメは、少しだけ考えて、答えた。
「水の、におい」
それきり、誰もしゃべらなかった。ぼくは、鼻から息を吸ってみた。朝の町のにおいしか、しなかった。
坂を下った。スピードが出て、Tシャツが風でばたばた鳴った。ケンジが立ちこぎで前に出て、アキラがすぐ抜き返した。ふたりとも、無言だった。無言で、本気だった。ばかだなあ、と思った。思いながら、ぼくも立ちこぎになっていた。ミナが「ちょっと」と言って、言いながら、ちゃんとついてきていた。
ほんの、二分か三分だった。
町にぼくたちしかいなくて、道がぜんぶぼくたちのもので、風があって、それだけの時間だった。トシがいたら、いちばん前を走ったと思う。振り向いて、おせーぞ、と笑ったと思う。
商店街の入口で、ケンジがブレーキをかけた。
自転車を降りて、ケンジは、それきり黙った。さっきまで競争していた背中が、また、寝ていない背中に戻った。ぼくたちは、自転車を押して、歩いてついていった。
パン屋と燃料屋のあいだに、それは、立っていた。
「……眠れなかったんだよ。あいつが――あれが、うちに来たから」
ケンジが、屋台から目を離さずに、言った。ゆうべ、偽物のトシは、ケンジの店に来たらしい。いつもの時間に、いつものように、無線の話をしに。ケンジの母さんは、トシくんいらっしゃい、と麦茶を出した。あれは、麦茶を飲んだ。うまそうに。ケンジは二階に逃げて、朝まで、天井を見ていた。それで、明るくなる前に、家を出て、みんなを起こしに回った。
「祭りは、先週、終わったよな」
ケンジの声が、かすれていた。ぼくたちは、屋台に近づいた。近づいちゃだめだと、頭のどこかで声がした。ナツメの声に似ていた。それでも、近づいた。
水槽の水は、黒かった。
墨を流したみたいに黒くて、なのに、金魚の赤だけが、ぽつ、ぽつ、と見えた。金魚は、泳いでいなかった。ぜんぶ、止まっていた。ひれの先まで、止まっていた。
台のはしに、ポイが置いてあった。針金の輪に、白い紙を張った、あの、金魚をすくう網。新品の紙が、五枚ぶん、きちんと重ねてあった。お椀もあった。店番のいない屋台が、店開きの支度だけ、きちんと整えて、待っていた。
いちばん手前の金魚鉢に、ぼくは、目を落とした。
黒い水の向こうに、顔があった。
トシの顔だった。
体は、なかった。顔だけが、水の底から、ぼくたちを見上げていた。目が合った。トシの口が、動いた。何度も、何度も、同じ形に動いた。水の中だから、声は、聞こえなかった。
でも、口の形で、わかった。
――たすけて。
「トシ!!」
ケンジが、鉢に飛びついた。両手で抱えて、持ち上げようとした。鉢は、動かなかった。台に置いてあるだけに見えるのに、根が生えたみたいに、動かなかった。ケンジは鉢のふちに手をかけた。水に、手を入れようとした。
「だめ!!」
ナツメが、叫んだ。
はじめて聞く、ナツメの大声だった。ナツメは走ってきて、ケンジの腕を、両手でつかんだ。白い顔が、もっと白くなっていた。
「さわっちゃだめ。その水に、さわっちゃだめ」
「なんでだよ! トシが、いんだよ! ここに!」
「さわったら、つかまるの」
ナツメは、ケンジの腕をつかんだまま、黒い水を見た。見て、すぐ、目をそらした。のどの奥で、小さく、えずくような音がした。
「その水は、あっちの水。ゆびの先でも、入れたら、むこうは、はなさない」
ケンジの腕から、力が抜けた。抜けたけど、鉢からは、離れなかった。トシの顔は、まだ、こっちを見上げていた。たすけて。たすけて。口だけが、動き続けていた。
「じゃあ、これは」
アキラが、低い声で言った。台のはしの、ポイを指していた。
「これで、すくえば、いいのか」
ナツメは、首を、横に振った。ゆっくり、振った。
「それは、お店の、道具だから」
「……どういう意味だよ」
「お店の道具で、あそんだら」ナツメは、ことばを、一つずつ、置くみたいに言った。「お客に、なっちゃう」
お客。その言いかたが、へんに、こわかった。お化けとか、おにとか、そういうことばより、こわかった。お客は、招かれる。お客は、もてなされる。お客は――帰してもらえるとは、かぎらない。
「すくえたら、どうなんの」ミナが言った。「トシ、すくえたら、戻るの?」
「わかんない。でも、たぶん、すくったぶん、はらうことになる」
「はらうって、なにを」
ナツメは、答えなかった。答えない、が、答えだった。
ぼくは、ポイの白い紙を見た。破れてもいない、まっさらな紙。すくえそうだった。手をのばせば、三十秒で、トシをすくえそうだった。それが、いちばん、むごかった。できそうに見えることが。網一枚、水一すくいの向こうに、トシがいるのに、その一すくいが、できない。
すくえない。
「……ふざけんなよ」
ケンジが、言った。鉢のふちを、にぎりしめていた。
「おれが、行かせたんだ。電池、取ってこいって。おれが言った。おれが、無線で、聞くなって言ったのに、切らなかった。つないだままにしたから、あいつ、答えちまったんだ。おれが――」
「ちがう」
アキラだった。アキラは、ケンジの襟首を、うしろからつかんで、鉢から引きはがした。ケンジがよろけて、アキラの胸に、背中からぶつかった。アキラは、そのまま、言った。
「おまえだけじゃねえ。おれも止めなかった。みんなだ」
ぼくも、止めなかった。その一文だけが、ぼくの中で、何度も鳴った。
そのとき、商店街の入口のほうから、声がした。
「あれ? おまえら、こんな朝っぱらから、なにしてんの」
偽物が、立っていた。
買い物かごを下げたトシの母さんの横で、トシの顔をして、トシの声で、笑っていた。トシの母さんは、屋台のすぐ横を通ったのに、一度もそちらを見なかった。きのうと同じ足取りで、八百屋のほうへ歩いていく。偽物だけが、そこに残った。
「金魚すくい? いいなあ。おれも、やろっかな」
鉢の底で、本物のトシの口が、動きを止めた。
止めて、それから、今までとちがう形に、動いた。ゆっくり、はっきり、一音ずつ。
――に、げ、ろ。
ぼくたちは、屋台の前から、離れた。走らなかった。走ったら、あれも走ってくる気がした。
歩きながら、ぼくは一度だけ、ふりかえった。
偽物は、屋台の前に立って、黒い水槽を、のぞきこんでいた。すると、水の中で、止まっていた金魚たちが、いっせいに動いた。すう、と、偽物のいる側のガラスに集まって、口を寄せた。餌の時間の、池の鯉みたいに。
偽物は、のぞきこんだまま、動かなかった。
ぼくは、角を曲がるまで、目が離せなかった。長かった。ずいぶん長かった。そのあいだ、あれは、一度も、まばたきをしなかった。
朝の風で、ぼくの目は、もう乾いてしょぼしょぼしているのに。
金魚には、まぶたが、ない。
*
神社の石段まで戻って、五人で、座った。
長いあいだ、誰も、しゃべらなかった。蝉が鳴いていた。ケンジは、両手で顔をおおって、そのまま、動かなかった。泣いているのか、泣いていないのか、わからなかった。わからないままに、しておいた。
口をひらいたのは、ケンジだった。
「……返事、送るぞ」
顔をおおったまま、ケンジは言った。
「山の上のやつ。弱い子。ナツメ、言ったよな。放送の声とは、べつのやつだって。……あいつなら、なんか知ってるかもしれねえだろ。あの屋台のことも。すくいかたも。はらいかたも」
「危ないよ」とミナが言った。「返事は、はんぶん、話しかけることなんでしょ。つよい子に、聞かれるかもしれないんでしょ」
「知ってるよ。危ねえのは、知ってる」
ケンジは顔から手を離した。目が赤かった。赤い目のまま、ケンジはぼくたちを順番に見た。
「けど、きこえないふりすんのは、いちばん、かっこわりいんだと」
トシのことばだった。トシのことばを、ケンジが言った。
ミナは、なにか言いかけて、やめた。やめて、うつむいてそれから顔を上げた。
「……文面は、みんなで考える。一文字でも、まちがえたくないから」
ナツメは膝を抱えて、ずっと黙っていた。黙ったまま、小さくうなずいた。うなずいてから、ひとりごとみたいにつけ足した。
「みじかく、ね。……ながい話は、とどく前にきかれるから」
ぼくはポケットの中のノートの角をにぎった。
白い紙。鉛筆の粉。点と線。トシひとり、すくえないぼくたちにはそれがぜんぶだった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




