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八月三十二日のラジオ 〜夏休みが終わらない町で、十年前に消えた子どもたちの声が聞こえる〜  作者: 虎野屋


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第6話「お先にお越し」

その夜、ぼくはしばらく、玄関から動けなかった。


すりガラスの向こうには、何も映っていない。音もしない。でも、何もいない、とは思えなかった。廊下の奥から母さんが来て、「何してるの、早く寝なさい」と言った。きのうと同じ声だった。ぼくは、うん、と言った。門を開けて確かめる勇気は、なかった。


朝になって、門の前のアスファルトを見た。


足跡は、なかった。濡れた跡も、なかった。何も残っていないことが、いちばん嫌だった。


五日目の朝、ぼくが足音の話をすると、トシが手を叩いた。


「おまえも! な、いるだろ? ぺたぺたのやつ」


うれしそうに言うことじゃない。ミナがぼくの袖を引いた。


「家まで、ついてきたの?」


「門の前で、止まった。……入っては、こなかった」


「ついてくるだけなら、まだだいじょうぶ」


ナツメが、ぽつりと言った。まだ、ってなんだよ、とケンジが言った。ナツメは答えなかった。答えない代わりに、膝を抱えた。ナツメの、いつもの形だった。


「調べようぜ」とケンジが立ち上がった。「正体がわかりゃ、対策もわかる。図書館、行くぞ」


   *


図書館は、開いていた。


開いている、というのが正しいのかは、わからない。カウンターの司書のお姉さんは、誰も借りに来ない本に、スタンプを押しては、戻していた。同じ本に、何度も。ぼくたちが前を通っても、顔を上げなかった。


児童書の棚に、それはあった。『にっぽん妖怪ずかん』。表紙の絵が日に焼けて、青鬼の顔が白っぽくなっていた。六人で床に座って、ページをめくった。


「足音、足音……」


ろくろ首。ぬりかべ。小豆洗い。ページの途中で、ケンジの手が止まった。


「うわ、こいつ気持ち悪ぃ」


牛の体に、人間の顔がついた絵だった。件、と書いて、くだん、と読むらしい。生まれてすぐに人の言葉で予言をして、死ぬ。絵の下に、小さな字で一行あった。


――その予言、決してたがわず。


「めくって」とミナが言った。ケンジがめくった。ぼくは、なんとなく、その牛の顔が目に残った。


三ページ先に、いた。


べとべとさん。


絵はなかった。絵の代わりに、夜道と、点々と続く足跡だけが描いてあった。夜、人のあとをついてくる。姿は見えない。悪さはしない。ただ、ついてくる。奈良のほうの妖怪、と書いてあった。


「対策、書いてあるぞ」ケンジが読み上げた。「道の脇に寄って、こう言う。――べとべとさん、お先にお越し」


「それだけ?」とトシが言った。


「それだけ、って書いてある」


「あいさつじゃん」


トシは笑った。ぼくは笑えなかった。ミナがノートを出して、ページを写し始めた。借りていこう、とトシが言ったら、カウンターのお姉さんが、初めてこっちを見た。


「今日は、貸出できない日ですから」


にっこり笑って、そう言った。駅のおじさんと、同じ笑い方だった。ミナが写し終わるまで、誰も、口をきかなかった。


   *


「ばあちゃんが、言ってたんだ」


帰り道、ケンジが言った。ケンジの家は電器屋で、二階にばあちゃんがいる。今は一日じゅう、同じ茶を淹れては、同じ湯呑みを洗っている。


「夜道で変なもんに会ったらな、追い払おうとするな、って。ああいうのは、追い払うもんじゃねえ。……先に、行ってもらうもんだ、って」


「なんだよそれ」とトシが言った。


「わかんね。でも、図鑑と同じこと言ってる」


先に、行ってもらう。ぼくは口の中で、その言葉を転がした。やっつけるんじゃなくて、勝つんでもなくて、道をゆずる。そんなのが対策になるのか、ならないのか。なるとしたら、それは、どういう相手なんだろう。


「今夜、試そうぜ」


トシが言った。言うと思った。


   *


行くのは、三人に決まった。ぼくと、トシと、ケンジ。六人で歩いたら、どれが誰の足音か、わからなくなるからだ。実際に音を聞いたぼくとトシ、無線係のケンジ。ミナは最後まで反対して、反対しきれないとわかると、神社で時間と無線を記録する係になった。アキラは不満そうだったが、ナツメを一人にできない、と言って残った。


出がけに、ミナはお守りみたいに、写したノートをぼくに押しつけた。


夜の九時に、三人で角を曲がった。


夜の商店街は、しんとしていた。シャッターと、街灯と、ぼくたち三人の影。自分の運動靴の音だけが、やけに大きく聞こえた。


十五分、歩いた。何も来なかった。


「来ねえなあ」とトシが言った、そのときだった。


ぺた。


三人の足が、同時に止まった。


ぺた。


後ろ。振り向かなかった。図鑑にもばあちゃんの話にも、振り向けとは書いてなかった。ケンジのトランシーバーが、ざ、と鳴って、ミナの声が何か言いかけて、ケンジが音量を絞った。


ぺた。ぺた。


近い。きのうより、近い。濡れた足の裏が、アスファルトを踏む音。一歩ずつ、間をあけて、確かめるみたいに。ぼくの心臓が、のどの下まで上がってきた。


「……脇、寄るぞ」


ケンジが、小さく言った。三人で、そろそろと、道の右に寄った。塀に背中がついた。足音は、道の真ん中を、まっすぐ来る。


言うのは、ぼくの役だった。じゃんけんで負けたからじゃない。ぼくが最初につけられたからだ。ぼくは息を吸った。声が、ちゃんと出るか、わからなかった。


「――べとべとさん、お先にお越し」


足音が、止まった。


一秒。二秒。夜が、静かだった。蝉も鳴いていなかった。


ぺた。


音が、動いた。ぼくたちの前を、通っていく。


街灯の下のアスファルトに、足跡が、ついた。濡れた、裸足の足跡。右、左、右。誰もいない道の上に、足跡だけが、ひとつずつ、生まれては、乾いて消えていく。ぼくは塀に張りついたまま、それを見ていた。こわかった。こわかったけど、それだけじゃなかった。足跡は、急いでいなかった。ゆずられた道を、ゆっくり、歩いていった。


ぺた。ぺた。


音が、遠くなっていく。


そのとき、トシが、一歩前に出た。


「なあ」


遠ざかる足跡に向かって、トシは言った。


「おまえ、毎晩、どこ行くんだ?」


足音が、止まった。


ケンジがトシの腕をつかんだ。ぼくは息を止めた。誰もいない道の先で、濡れた足跡が、ひとつ、こっちを向いた――気がした。


三秒。長い三秒だった。


ぺた。


足音は、また歩き出した。遠ざかって、聞こえなくなった。あとには、乾きかけの足跡が、ふたつみっつ、街灯の下に残っているだけだった。


「……ばか!」


トランシーバー越しに、ミナの声が飛んだ。トシは首をすくめて、へへ、と笑った。


「だってさ、あいさつが通じるんだぜ? じゃあ、話も通じるかもって」


「話しかけちゃ、だめ」


神社に戻ったとき、ナツメが言った。静かな声だった。静かなのに、今夜いちばん、こわい声だった。


「あいさつは、いい。あいさつは、こっちとあっちを、分けたまま。でも、話は」


ナツメは、そこで少しだけ、言葉を探した。


「話は、つながっちゃうから」


トシは、わかったわかった、と手を振った。わかっていない手の振り方だった。


   *


家に帰って、布団に入った。


十二時すぎ。町内放送が、いつもの通り、次の数を告げた。あっちは、ぼくたちより先に、日をめくる。


――こちら、八月三十二日。六日目です。


声はそれだけ言って、切れた。誘い文句は、なかった。ぼくは少しほっとして、目を閉じた。


閉じてから、考えた。


あいさつは、いい。ナツメはそう言った。でも、ぼくは今夜、あの足音に、自分から声をかけた。お先にお越し。あれは、あいさつだったのか。それとも――名前も知らない相手に、こっちから、声を渡したことになるのか。


枕元で、ラジオが、じ、と鳴った。


つけていないラジオだった。寝る前に、確かに切った。ぼくは布団の中で、固まった。スピーカーの奥から、雑音が、砂みたいにこぼれてきた。雑音の奥で、声がした。


――ユウタくん。


ぼくの名前だった。


――みつけた。


ラジオは、それきり、黙った。

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