第4話「減ったら、減りっぱなし」
三日目の朝も、味噌汁のにおいで始まった。
母さんがおたまを落として、あらやだ、と言った。ぼくはもう、箸を止めなかった。三日で慣れた。慣れたことが、いちばんこわかった。
*
神社の石段に、五人で集まった。集まったけど、やることがなかった。
町の外には出られない。大人はきのうを繰り返す。放送の正体はわからない。わからないことを、わからないね、と言い合うために集まるのも、二日目で終わっていた。
「腹へった」とアキラが言った。
それで、ぼくたちは駄菓子屋に行った。
駄菓子屋のばあちゃんは、いつもの丸椅子に座って、いつもの団扇を動かしていた。ぼくたちが入ると、いらっしゃい、と言った。きのうと同じ、いらっしゃい。
ケンジが棚の前で、固まった。
「……ラムネ菓子、ねえ」
瓶のラムネじゃなくて、フィルムの筒みたいなケースに入った、ぶどう味のラムネ菓子。ケンジが毎日買うやつだ。ケンジは棚を上から下まで見て、それから、ばあちゃんに訊いた。
「ばあちゃん、ラムネは?」
「はい、四十円」
ばあちゃんは、何もない場所から、何かを取るしぐさをして、何もない手を、ケンジに差し出した。
ケンジは、その手のひらを見た。しわだらけの、からっぽの手のひら。ケンジはポケットから五十円玉を出して、ばあちゃんの手に、そっと置いた。ばあちゃんはレジを開けて、十円玉を返してよこした。おつりだけは、ほんとうにあった。
「まいど」
外に出てから、ケンジは五十円玉のなくなったポケットに手を突っ込んだまま、しばらく黙っていた。
「……なくなった物は、補充されねえんだ」
ケンジはそういうことを考えるのが、五人でいちばん速い。電器屋の息子だからか、物事を配線で考える。どこかで断線してたら、その先には電気は来ない。
「この町、閉まってんだろ。トラックも入って来ねえ。ってことは、店の物も、うちの米も、減ったら減りっぱなしだ」
「食いもんが、なくなるってこと?」とアキラが言った。
「すぐじゃねえけど。いつかは」
ミナが、駄菓子屋の奥を振り返った。ばあちゃんは団扇を動かしていた。売る物が消えても、ばあちゃんは売り続けるんだろう。からっぽの手のひらを、差し出し続けるんだろう。
*
昼は、ミナがおにぎりを持ってきた。
台所に立ったら、お母さんが何も言わずに場所を空けてくれたのだという。おにぎりは五個あって、形がばらばらだった。ミナは、料理はうまくない。うまくないことを、ぼくは知っている。三年生のとき、家庭科の調理実習で、ミナの班だけ味噌汁が焦げた。味噌汁って焦げるんだ、とみんなが知った。
「……なに笑ってんの」
「笑ってない」
「笑ってた」
ミナは怒った顔で、いちばん大きいおにぎりをぼくに押しつけた。塩がききすぎていた。うまかった。うまい、と言ったら、当たり前でしょ、と言った。そのあと、少しだけ、ほっとした顔をした。ミナはいつもそうだ。先に怒って、あとで、ほっとする。
ナツメは、おにぎりを両手で持って、小さくかじった。食べるのが遅い。ぼくたちが食べ終わっても、まだ半分残っていた。
「ナツメは、うちの人、何やってた? 今朝」
ミナが訊いた。なんでもない声で訊いたのが、ぼくにはわかった。ナツメの家の話は、誰も聞いたことがない。
ナツメは、おにぎりを持ったまま、少し考えた。
「……朝ごはん、出てた」
「出てた?」
「テーブルに。出てた」
作ってた、じゃなくて、出てた。ミナはそれ以上、訊かなかった。訊かない代わりに、自分の水筒の麦茶を、ナツメのコップに注いだ。ミナはそういうことが、すっとできる。ぼくには、できない。
*
午後、アキラが立ち上がって、行くところがある、と言った。
ついて行った。ついて来るなとは、言われなかった。アキラは商店街を抜けて、写真屋の前で止まった。
写真屋のショーウィンドウには、七五三だの成人式だのの見本写真が並んでいる。アキラはガラスに顔を寄せて、奥の一枚を見ていた。運動会の集合写真だった。何年も前の。日に焼けて、色が薄くなっていた。
「……あった」
アキラが、ぽつりと言った。
写真の隅に、体操服の男の子が写っていた。ゴールテープを切っている。笑っていた。写真の下に、色あせた文字で「昭和五十三年 町内運動会」とあった。アキラには似ていない。似ていないけど、アキラがその写真を見る目で、誰なのか、わかった気がした。
アキラは五人でいちばん体が大きくて、五人でいちばん、しゃべらない。去年までは、こんなじゃなかった。去年までのアキラは、ドッジボールで外野から内野のぼくに当てて、大笑いするやつだった。いつからしゃべらなくなったのか、思い出せない。気がついたら、教室のいちばん後ろの席で、ひとりで窓の外を見るやつになっていた。
「帰るぞ」
アキラはそれだけ言って、歩き出した。写真のことは、何も言わなかった。ぼくも、訊かなかった。訊けるようになるのは、もっとずっと、あとのことだ。
*
夕方、秘密基地に寄った。
ケンジがラジカセの電池を新しいのに替えた。店から持ってきた最後の単一電池だった。減ったら、減りっぱなし。ケンジは電池の袋を、大事そうにたたんでポケットにしまった。
「なあ」とケンジが、つまみを回しながら言った。「おれ、考えたんだけど。夜の放送、あれ、どっから飛んでると思う?」
「……町内放送だろ。役場の」
「役場の放送室は、夜、鍵かかってる。じゃあ誰が、どっからマイク握ってんだって話」
ケンジは、壁の手描きの地図を、あごで指した。山の上の、赤鉛筆の書き込み。星見山送信所・立入禁止・録音室あり(たぶん)。
「電波ってのはさ、いちばん高いとこから飛ばすんだよ」
誰も、何も言わなかった。ブルーシートの隙間から、夕日が細く差し込んで、地図の上の鉄塔のところで、止まっていた。
*
夜、ぼくは布団の中で、放送を待った。
待ちながら、昼間のことを考えた。ミナのおにぎり。ナツメの『出てた』。アキラの見ていた写真。ケンジの、いちばん高いとこ。
みんな、少しずつ、何かを抱えている。三日目にして、やっとそれが見え始めていた。学校の教室では、見えなかったものだ。教室のぼくたちは、班がいっしょ、というだけの五人だった。
十二時すぎ。
スピーカーが、ジ、と鳴った。雑音。太鼓が、一拍。二拍。三拍。
きのうより、一拍、多い。
――こちら、八月三十二日。三日目です。
きれいな声が、言った。
――きょうは、いいことを、おしえてあげる。
ぼくは布団の中で、息を止めた。
――いちばん高いところから見ると、まちは、とてもきれい。
放送が、切れた。
ぼくは天井を見ていた。心臓がうるさかった。いちばん高いところ。昼間、ケンジが言った。あの声も、同じことを言った。たまたまだろうか。たまたまじゃなかったら、あの声は、どこで聞いていたんだろう。
誘ってる。
ぼくは布団から出て、窓のカーテンを、少しだけ開けた。
山の上に、星見山送信所の影があった。何年も使われていない、立入禁止の鉄塔。その先端で、小さな赤い灯が、ついて、消えた。
また、ついた。
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