第2話「八月三十二日」
ラジオを、つけた。
雑音だった。ザーッという音が、暗い部屋に広がった。ぼくはボリュームを絞って、耳を近づけた。雑音の奥に、何かある気がした。太鼓とか、声とか。何もなかった。ただの雑音だった。
いつのまにか、眠っていた。
*
朝、目が覚めて、最初に思ったのは、ミナの見送りだった。
九時に駅。母さんと行く約束だった。時計を見た。七時半。間に合う。ぼくは布団の上に起き上がって、それから、昨日の夜の放送のことを思い出した。
夢だったのかもしれない。夢にしては、声をはっきり覚えていた。こちら、八月三十二日。ばかばかしい。八月は三十一日までだ。そんなの、一年生だって知ってる。
台所から、味噌汁のにおいがした。
「ユウタ、起きたの。早く食べちゃって」
母さんが言った。ぼくは食卓についた。目玉焼きと、味噌汁と、きのうの残りのきんぴら。父さんは新聞を読んでいた。テレビで天気予報がやっていた。今日も暑くなるでしょう、と言っていた。
「ねえ、駅、何時に出る?」
ぼくは訊いた。母さんは、味噌汁の鍋をおたまでかき回しながら、こっちを見なかった。
「駅? なんの話」
「なんのって。ミナの見送り」
「ミナちゃん? ああ、桐生さんちの。引っ越し、明日でしょう」
箸が、止まった。
「……明日?」
「明日よ。九月一日の朝。だからあんた、今日じゅうに宿題終わらせなさいよ。明日は始業式なんだから」
明日は始業式。それは、今日のはずだった。
ぼくは父さんの新聞を、横からのぞきこんだ。父さんは何も言わずに、少し新聞を傾けてくれた。一面の右上。日付。
八月三十二日。
活字で、そう刷ってあった。八月三十二日、月曜日。ぼくは新聞を父さんの手ごと引き寄せた。父さんは「おい」と言ったけど、怒らなかった。何度見ても、三十二日だった。三十一の誤植じゃない。三十二。
「父さん、これ」
「ん?」
「日付、変だよ」
父さんは新聞をひっくり返して眺めて、「どこが」と言った。
「八月三十二日なんて、ないだろ」
「なに言ってんだ、おまえ」
父さんは笑って、新聞をたたんで、味噌汁を飲んだ。母さんも笑っていた。寝ぼけてるのよ、と言った。
そのとき、母さんの手から、おたまが落ちた。
からん、と音がして、母さんは「あらやだ」と言って拾った。それだけなら、なんでもない。でも、ぼくは見てしまった。きのうの朝も、母さんはおたまを落とした。同じ場所で。同じ、あらやだ、で。
そういえば、きのうの朝も、目玉焼きときんぴらだった。テレビは、今日も暑くなるでしょう、と言っていた。父さんは同じところで新聞をめくった。
首の後ろが、冷たくなった。
ぼくは味噌汁を残して、玄関に走った。母さんが後ろで何か言った。きのうと同じ言い方だった気がして、振り返れなかった。
*
ミナの家に走った。
走りながら、町を見た。町は、普通だった。普通なのが、変だった。ラジオ体操の音楽が、どこかの庭から聞こえた。ラジオ体操は先週で終わったはずだ。回覧板を持ったおばさんが、隣の家のチャイムを押していた。そのおばさんを、きのうも同じ場所で見た。
インターホンを押すと、ミナ本人が出た。よかった、と思った。何がよかったのか、自分でもわからないまま、よかった、と思った。
「ユウタ? どうしたの、朝から」
「引っ越し」
「え?」
「引っ越し、今日だろ」
ミナは変な顔をした。それから、玄関の奥をちらっと見て、サンダルをつっかけて外に出てきた。ドアを閉めて、小さい声で言った。
「……うち、なんか変なの」
ミナの家の玄関には、段ボールが積んであった。きのうまでに全部詰め終わったはずの、引っ越しの段ボール。それが、開いていた。ミナのお母さんが、鼻歌まじりに、段ボールから食器を出して、棚に戻していた。
「朝起きたら、お母さんが荷ほどきしてて。引っ越しは明日でしょ、って。何回言っても、明日でしょ、って」
「おまえんちもか」
「ユウタんちも?」
ぼくは新聞の日付のことを話した。おたまのことも話した。ミナはだんだん青くなった。青くなったまま、玄関の中のお母さんを見た。ミナのお母さんは、皿を一枚ずつ、棚に戻していた。楽しそうだった。あんなに大変だった引っ越しの荷造りを、ぜんぶ、ほどいていた。
「ねえ、ユウタ」
ミナの声は、小さかった。
「私、きのうの夜、変な放送聞いた」
「……こちら、八月三十二日」
「まだ起きている子は、ラジオをつけてください」
ふたりの声が、途中から重なった。ミナは自分の腕を抱えた。朝なのに、鳥肌が立っていた。ぼくにも立っていた。
「ケンジのとこ、行こう」
ミナが、ぼくの袖をつかんだ。
*
ケンジは電器屋の店先で、ラジカセを抱えて待っていた。ぼくたちの顔を見るなり、早口で言った。
「聞いた?きのうの夜の放送」
「聞いた」
「おれも聞いた。んで、朝から全部の局、回してみた。どこも普通の放送やってる。普通すぎるくらい普通。だけどさ」
ケンジはラジカセのつまみを回した。雑音。演歌。雑音。そして、アナウンサーの声。
――繰り返しお伝えします。本日、八月三十二日の県内の天気は……。
「ラジオも言うんだよ。三十二日って。全国放送のはずのやつまで」
ミナが、また腕を抱えた。ケンジは声を落として、店の奥をちらっと見た。ケンジの父さんが、レジの前で伝票をめくっていた。同じ束を、最初から、何度も。
「うちの親父もだ。朝から、きのうと同じこと言ってる。順番まで同じ。……なあ、これ、大人はみんなそうなのか?」
誰も答えられなかった。答えの代わりに、ぼくは言った。
「町の外、出てみようぜ」
隣町まで行けば、まともなカレンダーがあるはずだった。まともな日付の新聞と、まともな大人がいるはずだった。ケンジがラジカセを店の中に置いて、自転車の鍵を取ってきた。ミナも、うちから自転車を引いてきた。
国道に出た。町のはずれの、大きなカーブを曲がって、坂を上る。ペダルが重かった。夏の朝の空気が、ぬるいカルピスみたいに、まとわりついた。
峠のトンネルが見えた。あの暗がりを抜ければ、隣町だ。
ぼくたちは立ちこぎで、トンネルに突っ込んだ。ひんやりした闇の中を、自転車の音だけが響いた。出口の光が、だんだん大きくなった。
トンネルを、抜けた。
「……あれ?」
そこは、うちの町だった。
さっき出発した商店街の入口に、ぼくたちはいた。ポストの上に、猫がいた。きのうと同じ場所に、同じ猫が。
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