第1話「夏休み、最後の日」
八月三十一日の夕方、ぼくたちは秘密基地で、氷がぜんぶ溶けたカルピスを飲んでいた。
ぬるくて、甘さだけが濃かった。ケンジが「まずい」と言い、それでも全部飲んだ。ぼくも飲んだ。雑木林の上で、蝉がずっと鳴いていた。
ミナは明日、東京に行く。この雑木林は秋に潰されて、住宅地になる。ぼくたちは来年、中学生になる。
そういうことを、誰も口にしなかった。口にしたら、ほんとうになる気がした。
秘密基地は、去年の夏にぼくとケンジで建てた。ベニヤ板と、工事現場でもらったブルーシートと、ケンジの家の店から持ってきた壊れたパイプ椅子が二脚。壁には手描きの地図が貼ってある。学校、駄菓子屋、神社、用水路、それから山の上の、古いラジオ塔。ケンジが赤鉛筆で「星見山送信所・立入禁止・録音室あり(たぶん)」と書き込んでいる。録音室があるというのは、ケンジのじいちゃんの話だった。ほんとうかどうかは、誰も知らない。
「宿題、終わった?」
ミナが訊いた。ぼくは答えなかった。答えないことが答えだった。ミナは呆れた顔をして、それ以上は言わなかった。いつもなら言う。今日は言わなかった。そういうところが、いちばん困る。
ケンジがラジカセに乗り出した。アンテナを限界まで伸ばして、つまみをゆっくり回す。ケンジのラジカセは、ふつうのラジカセではない。本人いわく「秘密局仕様」だった。
雑音、演歌、雑音、野球中継、雑音。
ノイズの奥で、太鼓が一拍、鳴った気がした。
「今の、聞こえた?」
ケンジが言った。誰も聞こえていなかった。祭りは先週終わっている。ケンジは首をひねって、また、つまみを回した。
――こちら三丁目秘密局、応答せよ。聞こえるかケンジ。
ラジカセが急にしゃべったので、ミナが飛び上がった。無線だった。トシだ。ケンジが得意げにマイクを握る。
「感度良好。だけど宿題不良」
――こっちも不良。じゃあな。
それだけ言って、切れた。くだらない。この、くだらなさのことを、ぼくはあとで何度も思い出す。
日が傾いて、ぼくたちは基地を出た。ブルーシートの入口を閉めるとき、ミナが一度だけ振り返った。何か言うのかと思った。言わなかった。
駄菓子屋の前で、クラス委員のサチコに会った。十円のヨーグルトを、小さな木のスプーンで、几帳面にすくって食べていた。
「あ、佐伯くん。明日、始業式だからね。絵日記、ちゃんと持ってきてよ。集めるの、私なんだから」
「わかってるよ」
わかってるけど、書いてない。八月の絵日記は、まだ半分白い。サチコは疑いの目でぼくを見て、それから、ミナに気づいて少しだけ声を落とした。
「桐生さん、明日だっけ。引っ越し」
「うん」
「そっか」
サチコはそれ以上言わなかった。かしこい子は、言わないことを知っている。ぼくは、かしこくないから、何も言えないだけだった。
神社の石段の下で、アキラに会った。会ったというより、向こうが先にいた。アキラは何も言わずに、山の上のラジオ塔を見ていた。錆びた鉄骨が、夕日で赤黒く燃えていた。
去年までなら、こっちに来て「何してんだよ」と笑ったはずだった。でもアキラは、ぼくたちを見ても、見なかったみたいな顔をした。
石段の途中に、ナツメが座っていた。
白いワンピースの裾を膝の下に押さえて、目をつぶって、何かを聞いているみたいだった。ナツメは学校をよく休む。クラスは同じだけど、家がどこにあるのか、ぼくは知らない。誰も知らない気がする。
「祭りの音がする」
とナツメは言った。目はつぶったままだった。
ぼくたちは耳を澄ませた。蝉の声しか、しなかった。
「祭り、先週終わったろ」とケンジが言った。
「そっちじゃなくて」
ナツメはそう言って、目を開けた。それきり、何も言わなかった。ケンジがぼくの脇腹をつついて、変なの、という顔をした。ぼくも、変なの、という顔を返した。ほんとうは、少しだけ、首の後ろが冷たくなっていた。
「あれってさ」とケンジが、鉄塔を見上げて言った。「なんで花火、やんねえのかな。この町」
誰も答えなかった。祭りはあるのに、花火だけがない。理由を訊いても、大人は「そういうことになってる」としか言わない。そういうことになってる、が多すぎる町だった。
日が、山の向こうに落ちかけていた。明日が、もうすぐそこまで来ていた。始業式。空っぽの絵日記。ミナのいない教室。
ぼくは鉄塔に向かって、叫んだ。ふざけて叫んだ。半分は、ふざけていなかった。
「明日なんか、来なければいいのにーっ」
蝉が、一瞬だけ、鳴きやんだ。
「ばか」と、ミナが小さく言った。笑っていた。ちゃんと見なかったけど、たぶん、笑っていた。
夕飯は、カレーだった。
母さんは、明日の朝はミナちゃんちのお見送りに行くんでしょ、と言った。父さんは何も言わずにテレビを見ていた。ナイター中継。どこかの誰かがホームランを打って、どこかの観客が喜んでいた。
風呂から出て、ぼくは机に向かった。絵日記を書くつもりだった。ほんとうだ。
でも、開いたのは便箋だった。いつだったか、母さんの引き出しからくすねた、桜の絵のついた便箋。
ミナへ、と書いた。
その先が、続かなかった。
元気で、と書きかけて、消した。東京でも、と書きかけて、消した。消しゴムのかすを払ったら、便箋に桜だけが残った。ぼくは便箋を折りたたんで、算数のドリルの下に隠した。ドリルも白かった。便箋も白かった。八月三十一日の夜が、そうやって過ぎていった。
布団に入っても、眠れなかった。
天井の木目を数えた。十七まで数えて、やめた。窓の外で、風鈴がちりんと鳴った。風は、なかった気がする。
遠くで、犬が吠えた。すぐ、やんだ。
眠りかけたのか、眠っていなかったのか、わからない。時計の針が十二時を回った、その少しあとだった。
町内放送のスピーカーが、ジ、と鳴った。
こんな時間に、放送はない。夕方の五時に「夕焼け小焼け」が流れて、それで終わりのはずだ。ぼくは布団の中で、目だけを開けた。
スピーカーは、しばらく、雑音だけを流していた。ザーッという音の奥に、太鼓が、一拍。
それから、声がした。
大人の声じゃなかった。子どもの声でもなかった。どちらでもあるような、聞いたことのない、きれいな声だった。
――こちら、八月三十二日。
心臓が、一回、大きく鳴った。
――まだ起きている子は、ラジオをつけてください。
放送は、それきり切れた。風鈴が、ちりん、と鳴った。風は、やっぱり、なかった。
ぼくは布団から手を出して、枕元のラジオに、ゆっくり手を伸ばした。
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