☆二章☆1-14☆盲目的な恋
「戦ってでも、全員で帰るぞ!」
「まって!その前に、問題があるわ」
そう言ってエレンが、窓の外へ視線を向けた。
「問題?」
「ここ、最上階の一番奥よ」
全員が固まった。
ここはガドルの執務室で、屋敷の最上階、その最奥に位置している。玄関へ戻るには、長い廊下を抜け、階段を降り、いくつもの部屋を通過しなければならない。
しかも今は、警戒態勢が最高段階へ移行している。
つまり──
「敵の真ん中を突っ切ることになりますわね」
アイリスが冷静に現実を突きつける。
「だよなぁ……」
ノエルは窓の外を見た。眼下には庭が広がり、その向こうには高い外壁がそびえている。さらに屋敷全体は、薄く光る膜のような侵入者対策の結界に覆われていた。ここから飛び降りれば、まず助からない。
「正面突破しかないかな」
「いいえ」
エレンは、ろくでもないことを思いついた時に浮かべる、嫌な笑みをにやりと浮かべた。
「窓から逃げればいいのよ」
「いやいやいや!見て!?高さ見て!?地面が遠いよ!?」
ノエルは即座に窓の外を指差した。
「私を誰だと思ってるの?天人の血を引いてるのよ?それに…」
エレンが背中の翼を大きく広げると、羽毛が警報灯を反射し、鮮やかに輝いた。続いて、彼女が指を鳴らした次の瞬間、その左右に、容姿も衣装も翼の一枚一枚に至るまで本人と寸分違わない分身が二人現れた。さらに一人、また一人と増えていき、瞬く間にその場は、見分けのつかないエレンたちで埋め尽くされた。
「私の【写身鏡】なら、分身も同じ能力を使える」
「そうか! 皆を一人ずつ運べる!」
「正解よ。流石に屋敷の外側を覆ってる結界そのものを飛び越えるのは無理よ。空中に出たところを狙撃される可能性もある。でも、この屋敷の中を通るよりずっとマシ。私の分身たちがあなたたちを下まで降ろすから、そこから走って裏口へ向かうのよ」
「それなら……!」
「行けますわね」
アイリスも頷いた。確かに悪くない。むしろ、現状では最善に近い案だった。
「じゃあ決まり───」
「まずあなたからね、ノエル」
「え?」
ノエルは嫌な予感がした。エレンの分身の一人が、ノエルの前へ歩み寄り、ノエルと比べたらずっと背が高い彼女が、ゆっくりと手を伸ばして…
「ちょ、待っ──うわあああっ!?」
ノエルの身体がふわりと浮き、背中と膝裏に腕を回される。いわゆる、お姫様抱っこだった。
「なんで横抱きなんだよ!?」
「ドレスなんだから仕方ないでしょ。肩に担いだら裾が引っ掛かるじゃない」
「他にもあるだろ!?」
「暴れないで。落とすわよ?」
「それはもっと嫌!」
濃紺のドレスに化粧まで施され、髪も綺麗に整えられている。そんな姿で女性に横抱きされていることが、恥ずかしくてノエルは両手で顔を覆った。
すると、本物のエレンがじっとノエルを見つめ、口元には、妙に楽しげな笑みを浮かべた。
(…なんだ、その顔は!)
「……いいわね」
「何が!?」
「別に?」
「絶対別にじゃないだろ!」
エレンは、なぜか少しぞくぞくしたような表情を浮かべていた。
「そのまま恥ずかしがってなさい。ちょっと楽しいから」
「やっぱり楽しんでるじゃないか!」
「エレン」
姉のアイリーンがエレンへ冷たい目を向ける。
「はいはい。分かってるわよ」
『ノエル、顔が赤い』
『可愛い』
「お前らも見るな!」
窓が開くと、熱い砂漠の風が一気に室内へ吹き込んできた。砂混じりの風がノエルの頬を打ち、ドレスの裾と髪を大きく揺らす。
「行くわよ」
「ちょ、心の準備が──」
制止する間もなく、エレンの分身が窓から飛び出す。一瞬、胃が上へ置いていかれるような感覚に襲われた。ノエルが恐る恐る下を見れば、地面が遥か遠くにある。屋敷の庭園が、まるで小さな模型のように見えた。
「ひっ……高い! これは高すぎる! アルベルトだったら間違いなく気絶してるぞ!」
エレンの分身が大きく翼を羽ばたかせる。翼が風を捉え、落下速度がゆっくりと緩んでいく。強い風に煽られながらも、分身は姿勢を崩さず、慎重に高度を下げていった。
やがて足元に地面が近づき、ノエルたちは無事に地面へ足をつけた。
「地面って素晴らしい……」
「大袈裟ね」
「横抱きで空飛ばされた側の気持ちにもなってくれ!」
全員が次々と着地する。
「喋ってないで早く逃げるわよ!遅くなればなるほど脱出が困難になるのだから、裏口まで走るわよ!」
「了解!」
ノエルたちは一斉に駆け出した。
────
───
──
庭園を抜けると、砂漠の貴族らしく、屋敷の敷地内には乾燥に強い植物や巨大なサボテンが整然と並んでいた。普段ならゆっくり見物したいところだが、今はそんな余裕などない。
ノエルは走りながら鏡晶石へ目を落とす。画面には、三号機が更新した周囲の地図が表示されていた。
「あと少し!」
ノエルたちはさらに速度を上げた。しかし、先頭を走っていたシャスールが突然足を止めた。
「待って……いる…大勢」
シャスールの金色の瞳に刻まれた魔法陣のような模様が、かすかに輝いた。ノエルも足を止める。裏門へ続く曲がり角の向こうから、複数の気配が漂っていた。
「先回りされた……?」
「たぶん」
「なら私が先頭へ──」
アイリスが剣へ手を伸ばした。
「待って」
ノエルは小声で彼女たちを制止し、レナ、アイリーン、エレン、アイリスの順に視線を巡らせた。
「皆は一旦ここに隠れてて」
「は?何を言ってるの?!」
最初に反応したのはエレンだった。
「そうですわ。却下です」
「アイリスには別に頼みたいことがある。まずは“────”」
ノエルは二つの作戦を、聞き漏らしがないよう簡潔に伝えた。
シャスールは黙って耳を傾け、頭の中で手順を組み立てるように金色の瞳を細める。やがて小さく息を吐くと、静かに頷いた。
「なるほど」
アイリスは腕を組んだまま、ノエルの顔をまっすぐ見つめ、作戦の成否を冷静に見極めている。
やがて彼女は、レナたちへ視線を向けた。
三人はついさっきまで地下牢に囚われていたため、まだ疲労が残っている。エレンの分身たちも、長時間の能力使用で消耗していた。正面突破に賭けるより、ノエルの作戦に従った方が脱出できる可能性は高い。
数秒の沈黙の後、アイリスはゆっくりと息を吐き、組んでいた腕を解いた。白銀の髪が肩の上で揺れ、指が剣の柄へ触れる。
「……分かりましたわ」
静かな声だったが、その瞳に迷いはない。
「あなたの作戦に従います。ただし、無茶をするなら、わたくしが止めます」
ノエルは苦笑しながら頷いた。
「分かってる。頼りにしてるよ」
アイリスの眉が、ほんの少しだけ上がった。
「……素直に頼られると、調子が狂いますわね」
そう言いながらも、彼女の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
ノエルは異空小袋からペンダントを取り出した。
「このペンダントを付けてくれないか?」
「これがその……ええ、分かりましたわ」
アイリスに首へ掛けてもらう。
ペンダントトップの中では、オーロラを閉じ込めたような魔力の気泡が静かに漂っていた。光を受けるたび、深い紫から青へ、青からエメラルドグリーンへと色彩が移ろう。その幻想的な輝きは、まるで小さな夜空そのものだった。
首元で揺れる美しい光を確かめ、俺は再び異空小袋へ手を入れた。次に取り出したのは、シャスールの弓と矢筒だった。
「シャスール、これ」
「ありがとう」
シャスールは弓と矢筒を受け取り、背負い直す。
淡いドレスに、ほどいたピンクブロンドの髪。小柄で愛らしい顔立ちも相まって、見た目だけなら可憐な令嬢そのものだ。だが、細い肩から伸びる矢筒と、背に斜め掛けされた弓が、その印象を容赦なく裏切っていた。華やかな衣装の中に、森の狩人としての鋭さが滲んでいる。
「……本当にすごい見た目だな」
「ノエルに言われたくないかな」
「俺は好きで着てるんじゃない!」
『よく似合っている』
『ノエルは立派な女の子』
「俺は男だ!…行くぞ」
「うん」
二人で角を曲がった瞬間、ノエルとシャスールは足を止めた。
裏門の前には、虎や豹、鳥をはじめとするさまざまな種族の獣人たちがずらりと並び、全員が武器を構えている。
その中央に立っていたのは、赤茶色の髪をした巨大な熊の獣人だった。年老いているにもかかわらず、服の上からでも分かるほど筋肉の盛り上がった屈強な体躯。
悪徳商人、ガドル・ロベリア。
そして、その少し前には、ロイヤルパープルの髪に褐色の肌、蒼い瞳を持つ青年が立っていた。いつも通り、柔らかく間延びした笑顔を浮かべている。
獣人傭兵団団長、リオン・ラージュだ。
(……完全に待ち伏せされてるじゃないか)
さすがと言うべきか、退路までもが完全に塞がれていた。左右の通路にはいつの間にか傭兵たちが立ち並び、背後にも気配がある。どこへ逃げても、獣人たちの爪と牙が待ち構えている。
その包囲の中心で、ガドルが一歩前へ出た。
巨体が動いただけで、空気が押し潰されたように重くなる。赤茶色の髪の下から覗く目には、逃げ場を失った獲物を見下ろす冷たい光が宿っていた。
「ようやく姿を現したか。クローバー家と繋がりのある貴様らが、潜入を企ててこの屋敷へ忍び込んだことなど、最初から見抜いておったわ。わしが気づいていないとでも思ったか?」
「最初から?」
「泳がせてやっただけよ。どこまで嗅ぎ回っておるのか、それを知るためにな」
「じゃあ、俺たちが男だって分かってたのに、屋敷へ入れたのも最初から罠だったのか!」
────沈黙が落ちた。
まるで誰かが場の時間だけを切り取ったように、ガドルたち全員の動きがぴたりと止まる。
ガドルは口を半開きにしたまま瞬きを忘れていた。厳めしい眉は驚きのあまり跳ね上がり、握り締めていた拳からは、力が抜けていく。
リオンはさらに分かりやすかった。笑顔のまま、片足を前へ踏み出した姿勢で停止している。蒼い瞳だけが忙しなく瞬き、やがて信じられないものを見たように、ノエルの顔から胸元、そしてドレスの裾へと視線を往復させた。
ティグレは大剣を構えたまま、顎鬚を撫でていた手を宙で止めている。虎の耳がぴくぴくと動き、聞き間違いではないか確かめるように、隣の傭兵へ顔を向け、ラーベは貼り付けた札の端を指でつまんだまま、完全に固まっていた。包帯の下の表情は見えないが、露出した口元だけがわずかに開いている。
ファハドに至っては、抜きかけていた双剣を鞘へ戻すことも忘れ、片方の手だけが柄を握ったまま止まっていた。
傭兵団の面々は互いに顔を見合わせた後、改めてノエルとシャスールへ視線を戻した。誰かが小さく首を傾げ、別の誰かが確認するように隣の男の肩を叩く。叩かれた男は答えられず、ただ口をぱくぱくと動かしていた。
「男……だと?」
ようやくガドルが絞り出した声は、先ほどまでの威圧感をすっかり失っていた。
その一言を合図に、張り詰めていた空気が一瞬で霧散する。
殺気を放っていた傭兵たちは武器を構えたまま目を泳がせ、誰かが思わず槍の先を下げる。別の者は咳払いをして誤魔化そうとしたが、直後にむせてしまった。
リオンはゆっくりと両手を胸元へ当て、まるで心臓を押さえるようにして後ずさる。
「……男?」
その声には、驚愕と絶望が混ざっていた。
ガドルでさえ、信じられないものを見るように目を見開き、ノエルの姿を上から下まで何度も見直している。やがて、困惑したように鼻を鳴らし、首を左右へ振った。
「いや、何その反応!?」
あまりの反応に、ノエルは思わず叫んだ。
「どこからどう見ても男だろ!?」
『ノエルの見た目は立派な女の子』
『どこからどう見ても完璧な女の子』
「お前らは黙ってろ!」
シャスールがノエルを見る。
「僕と違って、ノエルは声も可愛いから分からないよね」
「お前まで裏切るな!」
「僕は喋る時、ちゃんと裏声だったし」
「そこ自慢するところじゃないだろ!」
傭兵たちが明らかに動揺している。
「嘘だろ……」
「男……?」
「あの顔で?」
「声まで……」
「だから男だって言ってんだろ!」
ノエルが叫んだ、その時だった。どさっ、と何かが倒れる音が響く。
振り返ると、リオンが両膝を地面につき、完全に崩れ落ちていた。蒼い瞳は虚空を見つめたまま、微動だにしない。
「…………男の子」
「さっきからそう言ってるだろ!」
「残念だったな!騙したのは多少申し訳ないけど、俺は男だから!」
リオンさんが顔を上げたので、ノエルは腰に手を当て、勝ち誇った表情を浮かべた。これで、もう妙な口説き方をされることもないだろう。そう思った次の瞬間、背筋を冷たいものが走り抜けた。
先ほどまで生気を失っていた蒼い瞳に、肉食獣を思わせる鋭い光が戻っていたのだ。
口元には笑みが浮かんでいる。なのに、怖い。
まるで逃げる獲物の進路を見定めるかのように、リオンはノエルだけを真っ直ぐ見据えていた。
「ハハハ……」
「……リオンさん?」
「男だから諦める? 女だから手加減する?」
リオンはゆっくりと立ち上がった。膝についた砂を払う仕草さえ、妙に落ち着いている。さっきまでの動揺が嘘だったみたいに、口元には元の人懐っこい笑みが浮かんでいた。
「ハッ……そんなことで、俺の『好き』が消えると思ったのかなぁ?」
声は軽い。けれど、その奥にあるものだけが、ひどく濁っていた。
「男でも女でも、俺には関係ないんだよねぇ。お前を見つけた瞬間から、もう目が離せない。声を聞いた瞬間から、もっと近くで聞きたくなった。触れたら、今度は二度と離したくなくなった」
「……え?」
「だから、性別なんてどうでもいいんだよ。お前が何者でも、どんな顔をしてても、俺の前から逃げようとしても──」
リオンさんが一歩、こちらへ踏み出す。
「俺が欲しいと思ったことだけは、変わらない」
さらに一歩。靴底が砂を踏みしめる音が、やけに大きく聞こえた。
「俺の目が、お前を追ってる…俺の身体が、お前を捕まえたがってる」
笑顔のまま、リオンはノエルの逃げ道を測るように視線を滑らせた。
「頭じゃ、やめとけって分かってるんだけどねぇ……無理なんだよ。お前が逃げるなら追いたくなる。嫌がるなら、もっと俺だけを見せたくなる。誰かがお前に触れるなら、その手ごと叩き潰したくなる」
「ひっ……」
「俺から逃げてみてよ。どこまで逃げてもいいよぉ?砂漠の果てでも、海の底でも、世界の裏側でも──俺が見つけるから」
リオンさんの口元が、ゆっくりと笑みの形へ歪む。
「見つけたら、今度こそ逃がさない。お前が男だろうが、俺を嫌いだろうが、俺のことを怖がろうが……俺が好きになったことだけは、誰にも変えられないからねぇ」
ノエルの背中を冷たいものが走った。
(こ、こいつ……!)
男だと明かせば、これで終わると思っていた。だが、甘かった。
事態は収まるどころか、むしろ──
(悪化した!?)
隣を見ると、シャスールが静かに両手を合わせていた。
「……何してる?」
「黙祷を捧げてる」
「誰のために!?」
「ノエル」
「諦めるな!」
『ノエルが男女関係なく好かれるのはいつもの事だけど、可哀想に…』
『ノエルの可愛いさは罪深い…強く生きて』
「お前らまで別れの挨拶みたいに言うな!」
「……ふん、茶番はそこまでにせい」
ガドルの低い声が響いた。
その一言で、弛緩していた空気が凍りつく。
獣人傭兵団が一斉に武器を構えた。大剣、双剣、札、弓、槍。先ほどまでの騒ぎが嘘のように、肌を刺す殺気が満ち、鋭い瞳がこちらを射抜く。誰もが幾度もの実戦を生き抜いてきた戦士だと、一目で分かった。
リオンも笑顔を消さぬまま距離を取る。ただ、その目だけは獲物を狙うようにノエルを見据えていた。
(……絶対捕まりたくない!)
ノエルは左手で胸元のペンダントを固く握りしめた。冷たい感触が掌に食い込み、速まる鼓動を伝えてくる。
次いで、右手を腰の剣へ伸ばす。鞘から抜き放った刀身が警報灯の赤い光を弾き、細い輝きを走らせた。
傍らでは、シャスールも弓を構えている。弓弦を引き絞ると、張り詰めた音が夜気に響いた。矢尻が標的を捉え、金色の瞳に宿る魔法陣が淡く輝く。
静寂の中、剣の切っ先と矢だけが、迫り来る敵を正確に見据えていた。




