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第十三話 お姫様抱っこと、夜明けまで離れない掌の熱

(……終わりましたわ。あの日、あの恐ろしい夢から目を覚ました朝からずっと張り詰めていたものが……本当に、すべて)


 十一月十五日の夜。ジークハルト様と共に公爵邸の控えの間へ戻ってからも、ベルジュ邸の大広間に響いた悲鳴は、まだ耳の奥で薄く尾を引いていた。


 静かに爆ぜる暖炉の火を見つめながら、私は深く息を吐き出した。小卓の上には、祖母マルグリットから託された『四つの鍵』の引き継ぎ箱と、無事に取り戻した白銀カメオのブローチが並んでいる。


 最後の仕切りまで役目を終えた引き継ぎ箱を見つめた途端、四週間ぴんと張り詰めていた糸がぷつりと切れた。頭の中心がふわりと綿菓子のように遠くなり、耳の奥や頬がじんわりと淡い熱を持ち始める。


(いけませんわ、ただの知恵熱ですもの……。来月の北方領への出立に向けて、荷造りの目録だけでも今夜のうちに確認しておかなくては。今日という夜に、こんな些細な悪寒で閣下にお手を煩わせるわけにはいきませんわ)


 少々の発熱なら誰にも言わずにやり過ごす――実家で十年かけて染みついた癖が、無意識のうちに私の背中を押した。


 執事長の報告を聞いていたジークハルト様に気づかれないよう、平気な顔を作ってソファから立ち上がろうとした――その瞬間。視界がぐらりと揺れ、膝から力が抜けた。


「――フィーネっ!」


 床に崩れ落ちるよりも早く、鋭い声と共に、逞しい腕が私の身体をすくい上げるように深く抱き留めた。


「っ……だ、大丈夫です、閣下。ほんの少し、立ち眩みがしただけで……来月の北方領への荷造り目録を、あと少しだけ確認してしまいたくて……」


 ジークハルト様の胸元へ倒れ込むように支えられた私は、反射的に笑顔を作って言い訳を口にしかけた。


 けれどジークハルト様は答えず、大きな掌を私の額と首筋へぴたりと当てた。熱を確かめる指先が微かに震え、見上げた先で彼の氷青色の瞳と目が合った瞬間――私は、はっと息を詰めた。


「……閣下……?」


 そこに浮かんでいたのは、氷狼公爵と呼ばれる普段の冷静沈着な仮面が剥がれ落ちた、心臓が止まるほど生々しい『恐怖』の色だったからだ。


(――ああ。このお顔は……)


 熱に浮かされた脳裏に、鮮烈な記憶がフラッシュバックする。


 あの悪夢の最後。冬の凍てつく北の別棟で、誰にも看取られず高熱に浮かされて息絶えた私の亡骸を、扉を蹴り開けて抱き上げたときの、ジークハルト様の引き裂かれるような絶望の表情。


 『専属技術者に勝手に倒れられては業務に支障が出るから』『高価な技術者への福利厚生だから』――ずっとそう自分に言い聞かせてきた計算や言い訳が、私を抱きしめる彼の腕の微かな震えの前で、初めて小さく軋みを上げた。


「……目録など、来月まで一行たりとも見る必要はない。これ以上、俺の前で『大丈夫だ』と口にするな」


 低く押し殺した声で告げるなり、ジークハルト様は私の背と膝裏に腕を回し、有無を言わせずふわりと横抱き――いわゆるお姫様抱っこの体勢で抱き上げた。


◇


「ひゃっ……! か、閣下、歩けますから……っ」


 軽々と宙に浮いた身体に、私は熱のせいばかりでなく耳まで真っ赤に染めながら、反射的に彼の肩口へと両手を添えた。ベスト越しに伝わる彼の高い体温と、いつもより速い心音が、掌から直接胸の奥へと響いてくる。


 ジークハルト様は私をしっかりと抱き寄せたまま寝室へと運び、天蓋付きの柔らかなベッドへと丁寧に横たえた。


 あの夢の中の別棟は、凍えるような隙間風が吹き込み、毛布一枚すら冷え切って、どれだけ声を嗄らしても誰も来てくれなかった。なのに今は、ふかふかの羽毛布団に顎まで優しく包まれている。


 侍女に水鉢と温かい飲み物を用意させて人払いをすると、ジークハルト様はご自分のクラバットを片手で無造作に緩め、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。


 固く絞ったリネンの濡れ布巾が、熱を持った私の額へとそっと乗せられる。ひんやりとした心地よさに小さく息を漏らして目を細めると、ジークハルト様は銀の匙ですくった温かい蜂蜜レモン水に息を吹きかけて冷まし、ご自身の手で私の唇へと運んでくださった。


 最初は戸惑いながらも、その真剣な眼差しに促され、私は小鳥が水を飲むように唇を開いてこくりと喉を鳴らした。ひと口ずつ飲ませていただくたび、甘酸っぱい香りと優しい熱が、渇いた喉から胸の奥へと染み渡っていく。


「……ありがとう、ございます。とても温かくて……甘いですわ」


 微笑んだ私の唇の端を、ジークハルト様は親指の腹で優しく拭った。そして、まつ毛を震わせる私をじっと見下ろすと、切実な執着を孕んだ眼差しのまま唇を開いた。


「二度と熱を隠すな、フィーネ。君が黙って呑み込んだ痛みは、ひとつ残らず俺から奪われたものだと思っている。……君の苦しさも心細さも、本来は俺が受け取るはずだったものだ。他の誰にも、君自身にも、もう勝手に処分させない」


 低く、けれどどこか切なく震えるような声でそう囁かれた瞬間、胸の奥が甘く痛んだ。


「……いいか。これは長いあいだ張り詰めていた糸が解けた知恵熱だ。熱が引くまで、君の額にも手首にも、俺以外の誰の手も触れさせない。水も薬も、この掌から受け取ってもらう。……分かったな?」


 彼自身の恐怖を鎮めるかのような独占欲と庇護の言葉が、私の心を固く覆っていた『我慢の殻』へ、温かな熱となってじんわりと染み込んでいった。


 私が「手がかからない良い子」を演じて痛みを隠すたび、この方はこんなにも深く傷つき、本気で恐れてくださっていたのだ。ならばもう、遠慮することが誠実さなのではない。この方の優しさに甘え、弱った姿をそのまま預けることこそが、今の私にできるたった一つの応えなのだと、熱に潤んだ心でようやく気づいたのだった。


 その時、ランプを調整しようとジークハルト様が椅子からわずかに腰を浮かせかけた。


 私はシーツの上で指先を一度ぎゅっと握りしめると、ためらいを振り切って手を伸ばし、彼のシャツの袖口を、熱で温まった指先でちょんと控えめに――けれど離さない強さで引っ張った。


 足を止めて振り返ったジークハルト様へ、私は潤んだ翠の瞳をまっすぐに持ち上げ、誰にも言えずにきた小さな『お願い』を、震える声で紡ぎ出した。


「……ジークハルト様。今夜だけは、『手がかからない姉』をお休みさせてください……。どうか……わたくしが眠るまで、どこにも行かずにそばにいてくださいますか?」


 気恥ずかしさと心細さに頬を朱に染めながら、私は袖口から指先をそっと滑らせ、彼の大きくて温かい掌へと自分の手を重ねた。


 ジークハルト様は「――っ」と息を呑み、次の瞬間、氷が溶けるようにその表情をどこまでも甘く、慈愛に満ちたものへと変えた。私の小さな手を、彼の大きな両手が優しく包み込むように握り返してくれる。


「……ああ。どこへも行かない。明日の朝、君が目を覚ますその瞬間まで、そしてこれからも一生、俺はずっと君のそばにいる。……だから、もう何も心配せず、俺にすべて預けて眠りなさい、フィーネ」


 胸の奥まで満たされるような安堵の吐息が漏れる。


「……温かい、ですわ……。ジークハルト様の手がここにあるなら……もう、どんな怖い夢も、見なくて済みそうです……」


 私は彼の大きな掌を両手で大切そうに抱き寄せ、頬をすり寄せるようにしてまぶたを閉じた。


 まどろみの淵へと沈む意識の向こうで、濡れ布巾がそっとずらされ、熱を持った額へ羽根のように優しい口づけが落とされるのを感じた。


「……おやすみ、俺のフィーネ。夢の入り口には、俺が立っている。あの別棟の冷たさは、もう一歩も通さない」


 夜の静寂に溶ける甘い誓いを子守唄にしながら、私は彼の温かい手を頬に当てたまま、夢ひとつ見ない深い眠りへと落ちていった。

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