山の上のお茶屋さん(三) 鉄の鈴と、蜜湯二百杯。夕暮れの縁台に、椀がふたつ
その若者が山を下りていったのは、その日の昼下がりのことでした。
握りしめたお守りを、それは大事そうに握りしめて。来たときとは、まるで違う、しっかりとした足取りで、坂を下りていきました。
そして、それから三日ののち。
その若者が、また山を登ってきたのです。今度は、ひとりではありません。隣に、いかつい、けれどどこか人のよさそうな、髭面の男がついています。その手には、布にくるんだ、何やら重たげなものを、ひとつ。
「聖女さま。……こいつが、その、世話になったそうで」
髭面の親方さんは、ぶっきらぼうにそう言って、深々と頭を下げました。その照れくさそうな横顔は、隣の若者と、笑ってしまうほどそっくりです。
「いいえ。私は、何も。お参りの作法を、お教えしただけです。この子が、自分で祈って、自分で帰ると決めたんですよ」
「……いや。うちのが飛び出したって聞いて、おれぁもう、生きた心地がしなかった。それが、ひょっこり戻ってきやがって。なんにも言わずに、また炉の前に立って、槌を握るもんだから」
親方さんは、ごしごしと鼻の下をこすりました。若者のほうも、真っ赤な顔で、うつむいています。二人とも、口下手で、意地っぱりで、そして、どうしようもなく、よく似ている。
「……あの。聖女さま。おれにも、ひとつ、そのお守りってのを、くれねえか」
親方さんが、ぼそりと言いました。
「この歳で、神頼みもねえもんだが。……こいつが、あんたに祈ってもらって帰ってきたってんなら。おれも、ひとつ、祈ってみてえ。こいつが、一人前になるまで、達者でいられるように、ってな」
まあ。私は、思わず笑顔になりました。もちろんです、と、鈴の焼き印のお守りを、もうひとつ。お代は、銅貨5枚。親方さんは、ごつごつした手で、それは大事そうに、受け取りました。祈ったのは、この人自身。弟子の行く末を案じる、その親心こそが、お守りの中身なのです。
それから親方さんは、あの布づつみを、ぶっきらぼうに差し出しました。ほどいてみると、中から出てきたのは、手のひらほどの、鉄の鈴。ごつごつした鍛冶の手には、およそ似合わぬ、繊細なつくりでした。
「……この社に、鈴の名がついてると、こいつに聞いてな。うちの炉で、こいつと二人で、打った。かたちばかりだが、どこぞに掛けてやってくれ」
振ると、ちりん、と、澄んだ音が、山の空気にほどけていきます。——ああ、なんて、いい音でしょう。祈りを込めるのは、私の仕事。けれど、この一鈴には、打った日から、もう、じゅうぶんすぎるほどの祈りが、こもっているのでした。
私はそれを、両手でありがたくいただきました。そして心のなかで、そっと帳面に書きつけます。——今日も、ひとり、帰る場所へ帰っていった。この社は、そういう場所でありたい。困った人が登ってきて、祈って、そしてちゃんと帰っていける。その「行って、帰ってくる」を、静かに見守る場所で。それが、私の願いなのです。
* * *
さて。この、にぎやかな茶屋を放っておかない人が、もうひとり。
言うまでもありません。当主さまです。
その日も、三日にあげずの参拝——もとい、視察——に登ってこられた当主さまは、参道の茶屋を見るなり、つかつかとマーサさんの前に立ちました。そして、ふところから、ずしりと重い金貨の袋を取り出したのです。
「マーサ。今日の品を、すべて買い上げる」
「……はい?」
「汁も、パンも、蜜湯も。ありったけだ。参拝の者に振る舞う」
私は社の掃除の手を止めて、あわてて駆け寄りました。またです。またしても、この方の過剰な奉納の虫が、始まってしまった。
「当主さま! いけません、それは営業妨害です!」
「なに」
「全部買い上げてしまったら、あとから来たお客さんが、汁の一杯も飲めなくなるでしょう! お店というのは、ちゃんと一杯ずつお代をいただいて、回るものなんです!」
当主さまは、金貨の袋を手にしたまま、むっつりと黙り込みました。まるで、叱られた大きな犬のようです。せっかくの気前のよさを、また突き返されて、不本意そうなことこの上ない、そのお顔。
見かねたマーサさんが、にんまりと、助け舟を出しました。
「まあまあ、領主さま。そう気を落としなさんな。……では、こうしましょう。買い占めるのは、なし。そのかわり、今日いらしたお客みんなに、蜜湯を一杯ずつ、領主さまのおごり。お代は、あたしが一杯ずつ、ちゃんといただく。それなら、品切れもしないし、うちの商いも痩せない。どうです」
「……それで、いい」
当主さまは、ようやく少しだけ、機嫌を直したようでした。そして、金貨の詰まった袋から、今日この山を登ってきた、ざっと二百人ぶんの蜜湯のお代を、きっちり数えて置いていったのです。蜜湯は一杯、銅貨1枚と銭貨5枚。銭貨というのは、銅貨の十分の一の、いちばん小さな銭のことです。それが二百杯ぶんで、しめて銀貨三枚になる勘定。……金貨のうなるほど詰まった袋をまるごと出しておいて、払うのは、たったの銀貨三枚。この方の金銭感覚は、どこまでいっても、桁が大きいのか小さいのか、わからなくなるのです。けれど、その三枚の銀貨が、この日、山を登ってきた誰もの手に、あたたかい一杯をそっと配って回る。それはそれで、悪くない使い道かもしれません。
背後で、お供のホルガーさんが、帳面に何やら書きつけていました。そっとのぞいてみると、費目の欄に、几帳面な字で、〈蜜湯、二百杯ぶん、銀貨三枚〉。——辺境伯家の、厳めしい会計帳簿に、蜜湯、二百杯。その字を書くホルガーさんの手が、心なしか震えているように見えたのは、きっと、笑いをこらえていたのでしょう。
* * *
日が、かたむいてきました。
参拝の列もまばらになり、縁台の客も、ひとり、またひとりと山を下りていきます。マーサさんが、店じまいの支度をはじめました。私もそろそろ、社を閉めて、屋敷へ下りなければなりません。
「最後に、蜜湯を一杯、おあがりよ」
マーサさんはそう言って、湯気の立つお椀を、ふたつ、縁台に置きました。ふたつ。……はて。私はひとりのはずですが。
ふと見ると、いつのまにか、当主さまが縁台の、私の隣に腰を下ろしていたのです。当たり前のような顔をして。
夕暮れの参道。西の空は、茜と藍の境目の色。虫の声が、そろそろと鳴きはじめています。私と当主さまは、並んで蜜湯をすすりました。
会話は、ありません。
けれど、それは気づまりな沈黙ではなくて。ただ、湯気が二人のあいだをのぼっては消えていく。それを眺めているだけで、なんだか、じゅうぶんな、そんな時間でした。
「……甘いな」
ぽつりと、当主さまが言いました。
「蜜を、入れましたから」
「……悪くない」
悪くない。——このお方の、このひとことが、どれほど上等な褒め言葉なのか。それはもう、この領じゅうの人が知っています。氷の辺境伯の「悪くない」は、そんじょそこらの人の「最高だ」より、ずっとずっと重いのです。
私はなんだか、くすぐったくなって。お椀のなかの蜜湯に、ふうっと息を吹きかけました。
いつのまにか、この人とこうして、並んで座るのが、ちっともおかしなことではなくなっている。それが、いつからだったのか、私には思い出せません。ただ、気づけば隣に、この黒衣がある。それが当たり前になっている。
……はて。この、あたたかい感じは、なんでしょう。きっと、蜜湯があたたかいから。うん。そうに決まっています。
茶屋の奥で、マーサさんが洗い物の手を止めて、そっとこちらを見て。聞こえるか聞こえないかの、小さな声で。
「……ごちそうさま」
と、つぶやいたのが。私の耳には、幸いにも届きませんでした。




