山の上のお茶屋さん(二) 山賊も拝む、盛りすぎ自慢話。そして、親方の顔を思い出した見習い
その縁台に、見覚えのある顔が腰かけていました。
日に焼けた、陽気な行商人。大きな背負子をかたわらに下ろして、あたたかい汁を、うまそうにすすっている。——あ。あの人は。
「ロッコさん!」
私が声をかけると、その人は目を丸くして、それから、破顔しました。
「おお! あんた、あのときの聖女さんじゃねえか! 肩の古傷を、遅い祈りで治してくれた……いや、驚いた。あのときの聖女さんが、こんな立派な社を開いてたとはなあ!」
ロッコさんは、辺境へ来る護送の馬車で、たまたま乗り合わせた行商人でした。凝り固まっていた肩を、私の祈りでほぐした人。あれから、ずいぶん経ちます。
「肩は、いかがですか」
「それよ! それがあんた、あれ以来、いっぺんも痛まねえんだ。重い荷を担いでも、すいすいよ。……あんたの祈りは、ほんとに大したもんだ」
ロッコさんはそう言って、まわりの参拝客に、ずいと身を乗り出しました。
「なあ、みんな、聞いてくれよ。この聖女さんに治してもらった、おれのこの肩と、もらったお守りはな、そんじょそこらのとは、わけが違うんだ。おれぁこないだ、山賊の出る街道を通ってな——」
始まりました。行商人の、自慢話です。
「懐に、この聖女さんにもらったお守りを忍ばせてたんだ。そしたら、どうだ。山賊どもが、おれの隣の隊商は襲ったのに、おれの荷だけは、なぜか素通りよ!」
「へえ!」と、縁台が沸きます。
ところが、この話。聴衆が増えるたびに、少しずつ大きくなっていくのです。二回目には「山賊がおれの姿を見失った」になり、三回目には「山賊がおれの荷の前で、なぜか立ち止まった」になり。そして、とうとう四回目には。
「——そんでな、山賊のかしらが、おれの荷を見るなり、がばっとひざまずいてな。『こいつぁ拝まねえと、ばちが当たる』って、みんなでお守りを拝んで、逃げてったんだよ!」
「ロッコさん」
私はたまらず、口を挟みました。
「盛らないでください。山賊は、拝みません」
「いいじゃねえか、景気が」
「よくありません。それに、効いたのは、お守りのおかげじゃ、ないんです」
私は居ずまいを正して、言いました。
「効いたのは、ロッコさんが、ちゃんと祈ったから、です。無事に帰りたい、と。うちのお守りは、その、あなた自身の祈りをお返ししているだけ。だから、拝んだのは山賊じゃなくて——あなた、なんですよ」
ロッコさんはきょとんとして、それから、なんだかてれくさそうに、鼻の頭をかきました。
「……ちぇっ。聖女さんは、どうも話を盛らせてくれねえや」
縁台が、どっと笑いに包まれます。けれど、その笑いの底で、何人かがそっと、自分の懐のお守りに手を当てたのを、私は見逃しませんでした。祈ったのは、自分。——その思いがじんわりと伝わっていく。それが、私のいちばんうれしいことなのです。
* * *
その、にぎやかな縁台の、いちばん隅に。
ひとり、うつむいて、パンにも手をつけずにいる若者がいました。
歳のころは、十六、七。すすけた前掛けに、ごつごつと節くれだった手。けれど、その手には、まだ少年のあどけなさが残っています。眉間にぎゅっとしわを寄せて、じっと自分の膝をにらんでいる。
私はそっと、そばへ腰を下ろしました。
「パン、冷めてしまいますよ」
「……いらねえ」
ぶっきらぼうな声でした。けれど、その声の奥のほうが、かすかに震えている。私は急かさず、ただ隣に座っていました。汁ものの湯気が、二人のあいだをゆっくりと、のぼっていきます。
しばらくして、若者はぽつり、ぽつりと話しはじめました。
鍛冶屋の見習いなのだそうです。親方と大喧嘩をして、町を飛び出してきた。もう、あんなところ、二度と帰るものか。そう思ってあてもなく歩いていたら、この山の噂を聞いて、なんとなく登ってきた——。
私は、説教はしませんでした。
帰りなさい、とも。喧嘩はよくない、とも。そういう立派なことは、ひとつも言わない。ただ立ち上がって、若者を手水場へ誘いました。
「せっかく登ってきたんですもの。お参りだけしていきませんか。作法、お教えします」
柄杓の持ち方。手の清め方。鈴の鳴らし方。ひとつひとつ、丁寧に教えます。若者はしぶしぶ、といった顔で、けれど存外すなおに、それにならいました。
本殿の前に、二人、並びます。
「では、目を閉じて。……祈ってみてください。難しいことは、いりません。ただ、祈ったとき、いちばん最初に顔の浮かんだ人が。それが、あなたの帰る場所です」
若者は、目を閉じました。
ぎゅっと握った手。しわの寄った眉間。しばらくそうしていた若者の、そのこわばった顔が。ふ、とほどけて。目じりがじわりと濡れたのが、私には見えました。
鈴が、ちりんと鳴ります。
若者は目を開けると、ばつが悪そうに、袖でごしごしと顔をこすりました。そして、消え入るような声で。
「……親方と、鍋を囲んでる顔でした」
まあ。
「喧嘩したときも、あの人ぁ、鍋の……いちばんいい肉だけは、おれの椀に、黙って……」
鍋を囲む顔。喧嘩の相手の、いちばん最初に思い出したのが。どやしつけられた顔でも、殴られた顔でもなく。ただ、いちばんいい肉を、黙って椀によそってくれる顔。——ああ。この親方さんは、きっといい人です。そして、この若者も、きっといい子なのです。
「お守りを、ひとつお持ちなさい。お代は、銅貨5枚」
私はその手に、鈴の焼き印のお守りを、そっと握らせました。




