山の上のお茶屋さん(四) 宿を建てましょう。——この話、王都で、売れるぞ
その、夕暮れの縁台の光景を。
少し離れた場所から、じっと眺めている人がいました。ロッコさんです。
行商人のこの人は、あれから数日、この山の麓に腰を据えて、商いをしながら、ずっとこの社を観察していたのでした。けれど、その目はもう、ただの陽気な行商人の目ではありません。
なにやら、口のなかでぶつぶつと。指を折りながら。
「……鳥居の外まで行列。ざっと、日に二百人か。お守りがひとり、銅貨5枚。汁やパンで客単価が上がって、遠方の客は宿ができりゃ、もう一泊ぶん落としていく。おまけに、お守りは一年で切れるから、来年また来る……」
行列の長さ。一人あたりのお代。また来る客の割合。そして——お守り、銅貨5枚、という、目の玉が飛び出るような安さ。
商人の頭のなかで、そろばんが猛烈な勢いで弾かれていきます。ロッコさんはこの社に、ただならぬ「商機」の匂いを、はっきりと嗅ぎつけていたのでした。
「銅貨5枚で、この効き目。しかも一年で、また要る。信心じゃねえ。これぁ、立派な商いだ。それも、とびきり、筋のいい……」
しかも、と、ロッコさんは、指をもう一本、折りました。この社の評判は、口伝てに、じわじわと広がっている。銭をかけた大げさな宣伝は、ひとつもない。それでいて、この客足。——もし、これを王都の、あの人の多い市場で、ちゃんとした噂として流してやったら。いったい、どれほどの人が、この山を目指すことになるか。
「……こいつぁ、おれ一人で抱えとくにゃ、でかすぎる話だ」
ロッコさんは、ごくり、と唾を飲み込みました。
ロッコさんの目が、きらりと光ります。それは、山賊の話を盛っていたときの、陽気な光とはまるで違う。もっと鋭くて、もっと深い。——商人の、目でした。
* * *
店じまいの片づけをしていると、マーサさんとガンツさんが、なにやら難しい顔で、私のところへやってきました。
「お社さま。ちょいと、相談があってね」
「はい、なんでしょう」
「このごろ、遠くから来る客が増えただろう。二日も三日もかけて、山を越えてくる連中さ。あの連中がね、困ってるんだよ。日帰りが、できねえって」
ガンツさんも、太い腕を組んでうなずきます。
「日が暮れちまって、参拝したくてもできねえ。かといって、この辺にゃ泊まるところもねえ。野宿は物騒だ。……お社さま。宿が、いるんじゃねえか。宿が」
宿。
その言葉に、私のそろばんの血が、ざわりと騒ぎました。すかさず帳場から、帳面を取り出します。
「建てましょう」
「え」
「宿。建てましょう。遠くから来た方が、安心して泊まれる、参道の宿。ちょうど、参拝客の増え方を見ていても、日帰りできる範囲は、もう頭打ちですから。宿があれば、二日がかりの参拝もできる。遠くの客足が、ぐんと伸びます。ええ、需要はじゅうぶん」
私は帳面に、さらさらと算段を書きつけていきます。
「お代は、安く。困った人が泊まれないと、意味がありませんから。それに、そのぶんは、汁やパンや、お守りで、ちゃんと返ってきます。あ、それから、つけ払いの枠も作りましょう。今は持ち合わせがなくても、あとで、という人のために。……ふふ。忙しくなりますねえ」
と、そこへ。縁台のほうから、低い声が割って入りました。
「宿なら、裏山の木を使え。職人も回す」
当主さまでした。いつのまにか蜜湯のお椀を手に、私たちの相談を聞いていたらしい。……また、です。また、この方の過剰な奉納の虫。私は反射で、口を開きかけました。銅貨5枚です、と。
けれど。
これは、私の懐に入るお金ではありません。困った参拝客が、安心して泊まれる宿。社と、客のための、実のあるもの。それなら、話は別なのです。
「……では。ありがたく、木を、いただきます。職人さんのお手間賃は、宿が回りはじめたら、売り上げからきちんとお返しします。出世払い、ということで」
当主さまは、少し意外そうな顔をしました。金貨も、絹も、宝石も、あれほど頑なに突き返してきた私が、木材と職人は、すんなり受け取ったのですから。
「……珍しく、受け取るのだな」
「はい。だって、これは、ご贔屓ですもの。困っている人のための宿に、いい木を回してくださる、上得意さまの。ありがたくいただくのが、筋というものです」
ご贔屓。上得意。——私が、当主さまのお気持ちを、また、せっせと商いの言葉に翻訳しているあいだ。当主さまは、なぜだか、ふいと横を向いて、蜜湯をひとくち、すすりました。その耳の先が、夕日のせいだけとは思えないほど赤く見えたのは。……はて。のぼせでしょうか、蜜湯で。
マーサさんとガンツさんが、顔を見合わせました。それから、やれやれ、というように笑って。
「……このお社さま。困りごとを持ちかけると、いつも、いちばんうれしそうな顔をするねえ」
図星です。私は、社のことをあれこれ考えているときが、いちばん楽しいのですから。何もなかった山に、茶屋ができて、次は宿。ひとつ、またひとつ。この山が、町になっていく。その算段を任されるのが、私にはたまらなくうれしいのでした。もっとも、そのうれしさの中身が、半分は経営者の血のうずきだということは、そっと、内緒にしておきます。
* * *
すっかり、日が暮れました。
私が屋敷へ下りる支度をしていると、帰り支度を終えたロッコさんが、大きな背負子を、よいしょと担ぎ上げて。それから、ふと思い立ったように、私のほうへ向き直りました。
その目は、もうすっかり、あの商人の色をしています。
「聖女さん。ひとつ、いいかい」
「はい?」
「おれぁ明日、この町を発つ。西へぐるっと回って——王都まで、行くつもりだ」
王都。この辺境から、馬車で十日もかかる、遠い遠い、光の都。
「そこで、ひとつ、商売の話なんだが」
ロッコさんは、にやりと笑いました。日に焼けた顔に、白い歯がこぼれます。そして、山の上の社を、あごでしゃくって見せると、こう言ったのです。
「聖女さん。この話——王都で、売れるぞ」
王都で、売れる。
……はて。売れる、とは、何を、でしょう。お守りでしょうか。それとも、蜜湯でしょうか。首をかしげる私をよそに、ロッコさんは、上機嫌で、山を下りていきます。その背負子の中で、いったい何の算段が、ぱちぱちと弾かれているのか。恋にも商機にも鈍い私には、そのときは、まるで、見当もつかなかったのでした。




