【幕間】よく来た
俺の裏山は、長いあいだ、凍てついていた。
呪いの山、と麓の者は呼んだ。呪われた領主の、屋敷裏の山。近づけば祟る、と。——ばかばかしい。祟りなどありはしない。ただ、そこが、氷の辺境伯の裏山だというだけのことだ。触れれば凍るこの手を持つ男の、その住まいの背にそびえる山。それだけで、人は木の一本、伐りに来なかった。獣の影さえ、まばらだった。しんと静まった白い斜面を見上げるたび、俺は、ひそかに思っていた。この山は、俺によく似ている、と。誰も寄せつけず、何も実らせず、ただ、凍てついて、黙している。
その山が、いまは。
朝から、人でにぎわっている。
鳥居が立った。石段の脇に、妙な顔の狛犬が二匹、座った。参道には、湯気を上げる茶屋。子を負ぶった母が登り、腰の曲がった年寄りが登り、みな、山の上の聖女に手を合わせ、何やら満ち足りた顔で、下りていく。日が落ちれば、縁台のあたりに、笑い声がこぼれる。あの、誰ひとり近寄らなかった呪いの山に、だ。
たったひとり——スズランの、せいだった。
王都が「使えない」と投げ捨てた、燭台級の、落ちこぼれ聖女。護送の馬車から、おっかなびっくり降りてきた、あの小さなスズランひとりが。人の忌み嫌うこの山を、こわがりもせず、とことこと登って。祈って、値をつけて、人を呼び、半年と経たないうちに、俺の凍った裏山を、こんなにも、あたたかい場所に変えてしまった。
俺はいっそ、王都に礼を言いたい。——よくぞ、この宝を捨ててくれた、と。
スズランを厄介払いした連中は、いまも知らないだろう。おのれの捨てたものが、どれほどの値打ちだったかを。銅貨5枚のお守りひとつが、寂れた辺境を生き返らせ、呪いの山を、人の集う里に変えたことを。知らずにいればいい。この掘り出しものは、俺のものだ。
——いや。変わったのは、山だけではなかった。
この山でいちばん、深く呪われていたもの。それは、俺だ。その俺すら、いつのまにか、変わってしまっている。
誰にも懐かないはずの毛玉が、俺を見ると尻尾をふる。俺の凍る手のすぐそばで、スズランは、こわい顔ひとつせず、椀の湯気に息を吹きかける。そして俺の生活には、いつからか、この坂を登る、という楽しみができていた。視察だと、口では言う。呪いを解いてもらう日でも、ないというのに。ただ、登ればスズランがいる。——それだけのために、俺の足は、勝手にこの山を選ぶ。
惹かれている、のだろう。
認めるのは、少々しゃくだが、否みようもない。あの、めまぐるしく、可笑しく、金勘定に目がないくせに、金では決して動かない、世にも変わった聖女に。俺は、われながら、どうかしているほど惹かれている。
だが、スズランは、何ひとつ知らない。
自分が来たことで、この呪われた土地が、どれだけ息を取り戻したかを。氷の領主と恐れられた男が、いまや、山を登るその足取りを、ひそかに、待ちわびていることを。祈りを重ねてもらうたび、手の氷が溶けていくように、彼女のそばにいるあいだだけ、俺のまわりの寒さが、たしかに、和らいでいくことを。——当人は、まるで気づいていない。
いつか、言えるだろうか。
あなたが来て、山が変わった。この領が変わった。俺が変わった、と。——どれほど深く、あなたに、礼を言いたいか。よくぞ、こんな呪われた山へ来てくれた、と。
言えない、だろうな。俺はいつだって、肝心の一言を、言いそびれる男だ。
……ならば、言葉のかわりに、示すまでだ。この凍る手で、スズランの守るもののために、できることを、ひとつずつ。山に道を通し、宿に木を運び、この辺境を、彼女が根を張るにふさわしい土地に、してみせる。この領のぜんぶを、いつか、その足もとに、そろえてやろう。
それが、氷の辺境伯にできる、精いっぱいの——「よく来た」なのだ。




