【幕間】与えたいもの
この山に、俺はもう、数えきれないほど登った。
視察だ、とホルガーには言ってある。だが、そう口にするのも近ごろはめっきり少なくなった。三日にあげず俺はこの裏山を登る。もっともらしい理由をこしらえるのにも、いいかげん飽きたのだ。
登れば、スズランがいる。
俺はスズランに、贈り物をした。金貨の袋を。上等な絹を。宝石を。呪いを眠らせてもらった礼だと言って。——そのすべてを、突き返された。「銅貨5枚です!」と。まるでこちらが悪事でも働いたかのような、必死の顔で。
妙な話だ。
王都にいたころ、女たちはみな、俺の財と名を欲しがった。氷の辺境伯と陰で呼び、その手に触れられることは恐れながら、その財布にはいくらでも手を伸ばした。金貨を積めば、たいていのものは手に入る。人の心にすら、値がついた。俺はそれを、そういうものだと思って生きてきた。
だが、スズランは違った。
金貨の袋を、見向きもしない。屋敷のひとつも買えるほどの値打ちを、汚れ物でも押しやるように突き返す。そのくせ——。
その日も俺は、参道のはずれから、スズランを見ていた。
彼女は板の間に、その日の銅貨を山と積んで、一枚、また一枚と数えている。曇ったものは袖でみがいて。ときおり手のひらにのせては、うっとりとながめて、何やら話しかけている。まるでその一枚一枚が、金貨よりも白金貨よりも得がたい宝ででもあるかのように。
銅貨など、道端に落ちていても、拾う者すら少ない、いちばん値の軽い銭だ。俺が突き返した袋ひとつあれば、あの銅貨の山が、いくつ買えるか知れたものではない。
それなのにスズランは、俺の金貨には目もくれず、その軽い銅貨を、一枚、また一枚と、後生大事に拝んでいる。
……分からない。まるで、分からない。
ある朝、俺は家宰とスズランのやりとりを、柱の陰で聞いた。給金の話だった。給金が出ると知って、彼女はたかがひと袋の俸給を両手で押しいただき、涙ぐんでいた。教会では一度も手にしたことがなかったのだと。働いたぶんが自分の手に返ってくる、それだけのことが、こんなにうれしいのだと。
その顔を見ていたら、俺はなぜだか、いてもたってもいられなくなった。
「ホルガー。俸給を、十倍にしろ」
口をついて出ていた。そのくらいの金など、この家にはどうということもない。スズランにもっと持たせてやりたかった。何かを与えてやりたかった。ただ、それだけの衝動だった。
「いえいえいえ! けっこうです! 身に余ります!」
彼女は火がついたように両手を振って、断った。
「……欲がないな」
俺はそうつぶやいて、その場を離れた。ひどく不機嫌だった。なぜ不機嫌なのか、自分でもうまく説明がつかなかった。
妙な話だ。スズランは、何も受け取らない、というわけでは、ない。褒美にくれてやった、あの使い道もない裏山を、彼女は喜んで受け取った。参道の山道が崩れかけていたのを、俺がそっと直させたときも、両手で拝むようにして、受け取った。——だが、あれはみな、社のため、山を登ってくる者たちのためのものだ。
スズラン自身のためにと差し出したものは、ただのひとつも、受け取らない。金貨も、絹も、宝石も、俸給の上乗せも。まるで、自分の手のひらにだけは、何ものせてはならないと、かたく心に決めているかのように。
いったい俺は、スズラン自身に、何をやれば、いいのだ。
彼女が、自分のためだと言って、喜んで受け取ってくれるもの。それが、たったひとつでいい、あるのなら。俺はそれをなんとしても手に入れて、その手のひらにのせてやりたい。——だが、それが何なのか、俺には分からなかった。金貨でも宝石でもない、何か。喉の奥まで出かかっては、いつものように、言葉になる手前でつかえた。
足もとに、ころん、と小さな重みがあった。
例の毛玉だ。むっつりした、への字口のほう。あの泉の晩から、なぜだかこの毛玉は、俺のそばを離れない。誰にも懐かないくせに。理由は分からない。分からないが、まあ、悪くはなかった。
俺はふところの干し肉を一切れ、その鼻先にやった。毛玉は少し思案してから、ぱく、とたいらげた。
……皮肉なものだ。この山で、俺の贈り物を素直に受け取るのは、この口のきけない毛玉、ただ一匹きりなのだから。
その日の夕暮れ、俺はスズランを屋敷まで送った。近ごろの、決まりだ。
暮れていく参道で、彼女は光る毛玉と澄んだ泉に見とれていた。この山は、スズランが来てから日ごとに息を吹き返していく。死んでいたものが、みな、目を覚ましていく。
「あなたが来てから、山が変わった」
俺はそう言った。ほんとうは、山のことだけを言ったのではなかった。変わったのは、この山だけではない。俺の暦も。俺の夜も。誰にも触れられなかった、この手も。——だが、そこまでは言えなかった。
「私、じゃありません。この子たちや、泉が、勝手に」
彼女はそう言って笑った。何も分かっていない顔で。
いつか俺は、スズランに言った。「あなたの、山だ」と。「あなたの、だ」とも。肝心のところで、俺はいつも主語を落とす。言いたいことは胸のうちに、はっきりとある。あるのに。それを口にしようとすると、決まって、言葉のほうが俺を裏切るのだ。
……おかしな聖女だ。
金貨には目もくれず、いちばん安い銅貨を宝のように数え、俺がスズラン自身のためにと差し出すものは、何ひとつ受け取らない。そのくせ俺のほうは、いつのまにか、その手に、俺の持つものを何もかも、与えてしまいたくなっている。
それが何と呼ばれるものなのか。俺はまだ、その名を知らずにいるだけだ。




