狛犬、就任(五) 領民公認「あれは通い婚では」/耳よりの儲け話
当主さまが、これほど足しげく山へ通われるようになって。
麓の店の人たちのあいだでは、いつからか、ある「うわさ」が、まことしやかに、ささやかれるようになっていました。
その日も、井戸端では、おかみさんたちが額を寄せ合って、なにやら熱心に、盛り上がっています。
「ねえ、あんた。気づいてるかい、領主さまのこと」
「気づいてるも、なにも。三日にあげず、あの山へ通ってさ」
「贈り物も、そりゃあ、すごいらしいよ。金貨だ、絹だ、宝石だって。ぜんぶ突き返されてるって話だけど」
「このあいだなんか、ご領主さまじきじきに、参拝の行列に、ちゃあんと並んでたっていうじゃないか。あの、氷の辺境伯さまが、だよ」
「そういや、あの無愛想なほうの守り神さままで、領主さまにだけは、べったり懐いてるっていうじゃないか」
「あらまあ。獣ってのは、正直だからねえ」
「巫女装束の聖女さまを、はじめて見たときの、あの領主さまの、腑抜けたお顔ときたら。大工の若い衆が、みんなして、真似して笑ってたよ」
「三日にあげず通って、山ほど貢いで、行列に並んでまで、会いに行って……」
ひとつ、またひとつと、動かぬ証拠が、井戸端に積みあがっていきます。そこまで数えあげて、おかみさんたちは、いっせいに顔を見合わせました。そして、しみじみと、深々と、うなずき合ったのです。
「……あんた、あれはもう、参拝じゃ、ないねえ」
「うん。どう見たって、あれは——通い婚、だね」
通い婚。
なんとも大胆で、しかも妙に的を射た結論に、井戸端は、めでたく達したのでした。もっとも、この一大事な「うわさ」だけは。ふしぎなことに、当のお二人さんの耳にだけは、いまだ、ちっとも届いていないのですが。
* * *
さて、その晩は、十日に一度の、祈りの夜でした。
当主さまが三日にあげず山へ登ってこられるとはいえ、呪いのかけ直しだけは、十日に一度、屋敷の執務室で、じっくりと行います。強い光で一気に、ではなく、遅く、確かに。眠らせた呪いの根を、一本、また一本と、掘り起こしては抜いていく。気の長い、根くらべのような仕事です。
私が両手をかざして祈りはじめると、足もとで、ころん、と小さな音がしました。
見ると、いつのまにか、ウンが、執務室までついてきていて。当主さまの足のそばに、まるくなって、目を閉じているのです。すっかり、そこが自分の定位置だとでもいうように。門番の役目は、もっぱらアンにまかせて、このごろのウンは、当主さまが屋敷にいるあいだは、こうして、そのあとをどこまでもついて回るようになりました。
「この山は、ずいぶん、賑やかになったな」
祈りを終えると、当主さまが、暖炉の火を見つめたまま、ぽつりとおっしゃいました。
「はい。ぜんぶ、当主さまのおかげです。山道も、休み処も」
私がそう返すと、当主さまは、少し間をおいてから。
「……あなたの、だ」
と、静かに、言いました。
あなたの。——また、です。この方はときどき、こうして、大事なところの主語を、ひとつ、ぽろりと抜いておっしゃる。あなたの、山。あなたの、おかげ。そして今度は、何が「あなたの」なのか、それすら、おっしゃらない。
なんだか、胸の奥のほうが、じんわりと、こそばゆくなって。私は一瞬、返す言葉に、詰まってしまいました。
……いえ、いえ。きっと、山の話です。この賑わいは、あなたが山をくださったおかげのもの——そういう、意味に決まっています。うん。そうに、決まっています。ほかに、いったい、どんな意味があるというのでしょう。深く考えると、なんだか、心の臓が妙な早鐘を打ちますので、私はここでも、深く考えないことにしました。
「……山の、話ですよね?」
私がおそるおそる、そう尋ねると。当主さまは、ふ、と息だけで、小さく笑って。それきり、何も答えてはくださいませんでした。
足もとのウンが、ふぁ、とあくびをして、寝返りをひとつ、打ちました。祈りが終われば、私も、屋敷の東の棟にある自室へ下がります。裏山の社と、この屋敷を、毎日行き来する暮らし。忙しくて、賑やかで——そして、なんだか、じんわりとあたたかい。こんな日々が来るなんて、教会にいたころは、思いもよりませんでした。
* * *
あくる日も、鈴の社は、朝から大にぎわいでした。
行列は、今日も鳥居の外まで。アンはせっせと営業スマイルを振りまき、ウンはあいかわらず、むっつりと参道のすみ。私は手水を案内し、祈りを重ね、お守りを書いて、今日もまた、社のなかを駆けずり回っています。
と、その昼下がりのことでした。
麓のほうから、どっしりとした足どりで、山道を上ってくる、大きな人影がありました。
恰幅のいい、女の人です。太い腕をまくりあげ、なにやら思案げに、あたりをきょろきょろと見まわしながら、上ってくる。——あの人。いつぞや、山の下から、じいっと参道を見上げていた、あの女将さん風の。
その人は、中腹の、切り開いたばかりの平場までたどり着くと、そこで、どっかりと、仁王立ちになりました。
そこからしばらく、腕を組んだまま、微動だにしません。鳥居の外まで続く参道の行列と、屋根つきの真新しい休み処と、鳥居の下でせっせとお客を出迎えるアンとを、順ぐりに、それはもう、じっくりと、値踏みしていく。その目は、たしかに、頭のなかで何か大きな算盤を、ぱちぱちとはじいている、玄人の目でした。
やがて、ひととおり見終えると、女の人は、うん、と大きくひとつうなずいて。それから、山の上の私のほうを見上げて、にやり、と、貫禄たっぷりに笑ったのです。
「あんたが、お社さまだね」
「は、はい。そうですけれど……」
「あたしはマーサ。ちょいと、あんたに、耳よりの儲け話が、あってね」
儲け話。
その、なんとも甘美な、ひびきに。私の、聖女にあるまじき耳が、ぴくん、と跳ねました。頭のなかで、にんまり帳簿が、いっせいに、めくれあがります。もうけ、ばなし。ああ、なんて、心の躍る、ことばのひびきでしょう。
「く、詳しく。ぜひ、詳しく、うかがわせてくださいっ」
思わず、ずい、と身を乗りだした私を見て。マーサさんは、我が意を得たり、とばかりに、にやりと、笑みを深くしました。……どうやら、この女将さん。私が食いついてくることなど、とうの昔に、お見通しだったようです。
マーサさんは、鳥居の外まで続く行列を、あご先で、しゃくって見せると。それはもう、いい笑顔で、こう言い放ちました。
「いいかい、お社さま。行列ってのはね、お客だ。そして、お客ってものはね——」
どん、と、太い腕で、自分の胸を、たたいて。
「——お腹が、空くんだよ」




