狛犬、就任(四) 無口な男と、無愛想な毛玉/目を覚ましはじめた山
いっぽう、もう一匹のウンときたら。
これが、アンとは、何から何まで正反対でした。
誰がなでようと手をのばしても、ふい、と身をよじってかわし、するりと逃げてしまう。愛想笑いのひとつも、ありません。参拝客が「こっちの子は、ずいぶんつれないねえ」と苦笑いするほど、いつもむっつりと、への字口で、参道のすみにうずくまっているのです。せっかくの守り神さまなのに、これでは客寄せの役には立ちません。
そんなウンが、たったひとり——いえ、たった一人と一匹の間柄で、心を許している相手といえば。あの泉の晩からずっと、当主さまだけ、なのでした。
あいかわらず三日にあげず山へ登ってこられる当主さまが、参道に姿を見せると。むっつりウンは、すっ、と起き上がって、とことこと、まっすぐにそのそばへ歩いていく。そして、黒衣のすぐ隣に、ちょこんと腰を下ろすのです。
その日も、参拝の行列に律儀に並んだ当主さまの隣に、ウンは、いつものように、ぴたりと寄り添っていました。
当主さまは、ちらりとウンを見下ろしました。ウンもまた、ふい、と当主さまを見上げました。それきり、二人は。
「…………」
「…………」
しばらく、ひとことも交わさぬまま、並んですわっていました。
何も言いません。何もしません。ただ黙って、肩を並べて、参道の先を、じっと眺めている。むっつりした男と、むっつりした毛玉。……なんでしょう、この、妙にしっくりと、気の合っている感じは。言葉はひとつもないのに、なにか、深いところで通じ合っているように見えるから、ふしぎです。無口な者どうし、というのは、案外、こういうものなのかもしれません。
やがて当主さまが、ふところから、何か小さなものを取りだしました。見れば、上等な干し肉のかけらです。……ははあ。過剰奉納の癖は、こんなところにまで出るのですね。当主さまは、それを、無言のまま、ウンの鼻先に、そっと差しだしました。ウンは、ちらりとそれを見て、少し思案するような間をおいてから、ぱく、と、ひとくちで、たいらげてしまいました。それだけです。お礼も、尻尾のひと振りも、ありません。当主さまのほうも、それでじゅうぶん満足だとでもいうように、ただ、ちいさく、うなずいただけ。
「まあ。お二人さん、ずいぶん仲良しですね」
私が、思わずそう声をかけると。
当主さまと、ウンは。
ぷい、と、まったく同じ角度で、寸分たがわず同時に、そっぽを向いたのでした。
……本当に、そっくりの、お二人さん(一人と一匹)です。私は、こみあげる笑いを、かみ殺すのに苦労しました。それにしても、氷の辺境伯と恐れられたこのお方が、毛玉相手に、こんなに絵になるだなんて。出会ったころには、思いもよらないことでした。
* * *
その日の、夕暮れどきのことです。
店じまいを終えた私は、いつものように、当主さまに送られて、裏山の道を下りていました。近ごろは、日暮れに当主さまが山にいるときは、こうして屋敷まで送ってくださるのが、なんとなくの決まりになっていたのです。ウンも、当主さまのあとを、ころころとついてきます。
と、その道すがら。私は、ふと、足を止めました。
鳥居のほうを振り返ると——アンとウンが、いえ、ウンはここにいますから、アンが。鳥居の下で、まるくなりかけて。その白銀の毛並みが、ほう、と、ほのかに光っているのです。夕闇のなかに、小さな灯りがともったように。
「……当主さま。あの子、光っています」
「泉も、だ」
当主さまが、あごで、泉のほうをさししめしました。見れば、暮れゆく泉の水が、いつもよりずっと、澄んで見えます。底の小石まで、透けるほどに。水位も、私が来たばかりのころは涸れかけていたのに、いまはふちのすぐ近くまで、なみなみと満ちている。あたりの空気も、どこか甘い。若葉と、しめった土と、清らかな水の匂い。
私は、しばらく、その景色に見入っていました。
(……この山、目を覚まし始めてる)
どうしてそう思ったのかは、自分でもわかりません。ただ、肌でそう感じたのです。長いあいだ深く眠っていた山が、ゆっくりと寝返りを打って、少しずつ息を吹き返しつつある。そんな、たしかな気配。
「あなたが来てから、山が変わった」
当主さまが、静かに言いました。
「私、じゃありません。この子たちや、泉が、勝手に」
「……そうか」
当主さまは、それ以上は何も言わず、ただ、光る毛玉と、澄んだ泉を、じっと見つめていました。その横顔が、なんだか、とても穏やかで。私は、難しい理屈は、やっぱり考えないことにしました。山が元気になるのは、いいこと。泉の水が澄むのも、いいこと。それで、じゅうぶんではありませんか。私たちは、暮れていく山道を、ゆっくりと、屋敷へ下りていきました。
* * *
このころになると、鈴の社へ上る山道は、日ごとに、見ちがえるほど立派になっていきました。
でこぼこだった急な坂には、きれいに切りそろえた石段が。踏み外しそうな崖ぎわには、頑丈な木の手すりが。中腹には、参拝客がひと息つける、屋根つきの休み処まで。ふと気づけば、次から次へと、まるで魔法のように、山道が整えられていくのです。
もちろん、私にこんな大がかりな普請を頼むお金など、あるはずもありません。では、いったい誰が。——考えるまでもないでしょう。当主さまです。ご自分で、毎日のように登っては、石工に指図までしておられる。
「これは、領内の道路整備だ」
当主さまはいつも、たずねてもいないのに、しれっとそうおっしゃいます。
道路整備。なるほど、ごもっとも。参道は、たしかに道です。——なのですが。それにしては、こんなに念入りに整備されているのが、この、うちの社へ上る山道、ただ一本きり、というのは。はて、いったい、どういうことでしょう。……深く考えると、また負けるような気がしますので、私はこのことも、考えないことにしました。
ある日、私は、当主さまとホルガーさんの、こんなやりとりを、掃除をしながら、ついうっかり、聞いてしまいました。もっとも、辺境伯家ともなれば、山道の普請の費えなど、痛くもかゆくもありません。帳面を片手に困り顔のホルガーさんが、頭を悩ませているのは、どうやら、お金のことでは、ないようでした。
「当主さま。……この『道路整備』でございますが。整えておりますのは、鈴の社へ上る、この山道、ただ一本きり。ほかの街道は、どこもかしこも、手つかずのままにございます」
「必要な投資だ」
「はい。……ですが、近ごろは、諸方から、妙なうわさが立っておりまして。領主さまは、いったい、あの裏山の何を、それほどお気に召したのか、と」
「この領の、未来だ」
「…………この領の、未来」
「そうだ」
「…………さようで、ございますか」
ホルガーさんは、それきり、何も言い返しませんでした。ただ、当主さまの、あまりに堂々とした横顔を、じっと見つめたあと。深いため息をひとつついて、懐から胃の薬を取り出し、一粒、口へ放りこんだのです。……この方の胃を痛めているのは、費えなどではなく、隠す気のかけらもない、ご主人さまの、そのお心のよう。私は、なんだか気の毒になって、そっと目を伏せ、掃除に戻ったのでした。




