狛犬、就任(三) 銅貨は一枚ずつ、金貨の山は突き返す——はじめてのお給金
さて、このアンという子が。
とんでもない、営業上手だったのです。
参拝客が鳥居をくぐってくると、アンは、たたっと軽やかに駆け寄って、その足もとにちょこんと座り、へへ、と、それはもう人好きのする笑顔を、惜しみなく振りまくのです。もふもふの白銀の毛玉が、つぶらな瞳でじっと見上げてくる。この愛敬に、心を溶かされない人は、まずいません。
「おや、まあ。なんとも可愛らしい守り神さまだこと」
「よしよし、いい子だねえ。ほら、これはお賽銭のおまけだよ」
参拝客はみんな、目じりを下げて、アンの頭をなでていきます。そして、なでたあとは決まって、いつもより多めに、お賽銭をはずんでくれるのでした。可愛いものにほだされると、ついつい財布のひもがゆるむ。人の心とは、かくもたやすく、あたたかいものなのです。
なかには、こんなお客もいました。朝から虫の居所が悪く、「どうせ気休めだろう」と、むすっとした顔で山を上ってきた、荷運びのおじさん。ところがアンが、たたっと駆け寄って、その足もとで、ころん、とお腹を見せてひっくり返ってみせると。おじさんは、しばらく、むむむ、と眉間にしわを寄せてこらえていましたが——ついにこらえきれず、ぶはっと吹きだして。「ちくしょう、なんて可愛いやつだ」と、すっかりでれでれの顔で、アンの白いお腹を、わしゃわしゃとなでまわしたのです。アンの営業は、渋いお客さまにこそ、よく効くのでした。
その日の夕方、賽銭箱を開けて中を数えながら、私はしみじみと、感じ入っていました。
(アンが来てから、お賽銭が、二割がた増えている……この営業の腕、ちゃんと査定してあげたい……いえ待って、この子の給金は、餌代だけ……つまり、経費はほとんど、ただ同然……)
可愛い顔で客を呼び込み、餌のほかは一銭もかからない。こんなに優秀な看板娘が、いったいどこの社にいるでしょう。私は帳簿の数字を眺めながら、じわじわと、にんまり、悪い顔になりかけて——はっと我に返りました。いけない、いけない。守り神さまを、営業成績で査定するなんて。ばちが当たります。私はあわてて、帳面を閉じたのでした。
もっとも、私のこのお金好きは、金貨の山を前にしたときだけは、どういうわけか、さっぱり鳴りをひそめてしまうのです。当主さまの過剰奉納には、あんなに腰が引けるくせに。参拝の方々がくださった、銅貨のいちまい、いちまいには——それはもう、目がありません。
その夕暮れも、私は屋敷へ下りるまえに、その日の賽銭とお守り代を、板の間にずらりと積み上げて、一枚、また一枚と、指先で数えていきました。曇ったものは、袖でみがいて。ときどき、手のひらにのせて、うっとりと、ながめては。
「今日も、たくさん集まってくれて、ありがとうねえ」
と、銅貨に話しかけたりして。
そこへ、木札の削りかすを片づけに来たガンツさんが、じとりと、私を見下ろしました。
「お社さま。あんた、その山を、一枚ずつかい。目方で量りゃ、すぐ済むだろうに」
「とんでもない。一枚ずつ数えるのが、いいんです。目方だなんて、この子たちに、失礼です」
「この子たち、って……銭に、かい」
「しめて、銅貨で、七百四十二枚。今日も、きっちり、儲かってます」
私が、まん丸に積み上がった銅貨の山を、ぽん、と得意げに叩いてみせると。ガンツさんは、やれやれ、と太い肩をすくめて、行ってしまいました。金貨の袋には見向きもしないくせに、銅貨の山は後生大事に数える——きっと、そう言いたげな顔でした。けれど、それでいいのです。当主さまの金貨は、私が働いて得たものではありません。でも、この銅貨の一枚一枚には、山を登ってきてくださった方の、祈りと、暮らしが、ちゃんと詰まっている。だから、一枚だって、粗末にはできないのです。……ええ、はたから見れば、しみったれた銭勘定だとしても。私は、また、いそいそと、続きを数えはじめました。
* * *
と、そういえば。
銅貨を数えているうちに、私は、あることに、はたと気づいてしまいました。数える手が、ぴたりと止まります。
(……私、そういえば。この辺境伯家から、お給金って、いただけるのかしら?)
考えてみれば、私は、この屋敷に住み込んで、寝食まで面倒を見ていただいている、当主さま付きの、いわば専属の聖女です。それなのに、お給金のことを、いちども、催促したことがありませんでした。なぜなら——教会にいたころは、朝から晩までこき使われて、お給金なんて、ただの一度も、いただいたことが、なかったからです。ただ働き。それが、当たり前でした。でも、ここは、教会ではありません。
いてもたってもいられなくなって、私は翌朝、さっそくホルガーさんを、つかまえました。
「あの、ホルガーさん。つかぬことを、うかがいますが。……私、お給金って、いただけるのでしょうか」
ホルガーさんは、きょとん、としたあと、しごく当然、というように、うなずきました。
「もちろんでございます。とうに、お渡しすべきでした。……ちょうど、今月ぶんを、お預かりしておりましたので」
そう言って、ホルガーさんは、私の手のひらに、ことり、と、小さな革の袋をのせてくれました。
ずしり、と。手のひらに、たしかな、重み。
私は、しばらく、その袋を両手で包んだまま、動けませんでした。……これが。働いて、いただいた、お給金。教会にいた十年のあいだ、朝から晩までこき使われても、ただの一度も、手にしたことのなかったもの。ただ働きが、当たり前だった。それが、いま、この手のひらのなかに、たしかに、ある。
中の銅貨を数えるより先に、私の目の奥が、じわりと、熱くなりました。
「……ホルガーさん。私、このお金。一枚、一枚、大事に、使います」
「そ、そんな、大げさな。ただの、当たり前の、お給金でございますよ」
ホルガーさんは、少し面食らったように、そう言いました。けれど、私にとっては、当たり前なんかでは、ありませんでした。働いたぶんが、ちゃんと、この手に返ってくる。ただ、それだけのことが、こんなにも、うれしい。
ところが、です。この、私とホルガーさんのやりとりを。少し離れた柱の陰で、じっと聞いていた人が、いたのです。当主さまでした。
当主さまは、つかつかと歩み出てくると、ホルガーに向かって、こともなげに、こう言い放ちました。
「ホルガー。俸給を、十倍にしろ」
「じゅ……!?」
「いえいえいえ! けっこうです! 身に余ります!」
私は、あわてて、両手を、ぶんぶん振りました。せっかくのお給金が、いきなり、十倍。うれしいどころか、こわくて、夜も眠れなくなってしまいます。金貨の山を突き返すのと、まったく、同じ心地です。ちゃんと、働いたぶんだけ。それが、いちばん気持ちよく、ありがたく、いただけるのです。
「……欲がないな」
当主さまは、なぜだか、ひどく不満そうに、そうつぶやいて。ウンを従えて、行ってしまわれました。……はて。お給金を断られて、なぜ、あんなにご機嫌ななめなのでしょう。ほんとうに、ふしぎなお方です。




