狛犬、就任(二) 阿と吽だから、アンとウン——守り神さま、就任
私は提灯を掲げて、そうっと近づいてみました。
毛玉は二つとも、まん丸でした。子犬より少し小さいくらいの、ころんとした白銀のかたまりです。夕あかりのなかでも、その毛並みには、ほんのりと淡い光の粒が散っているように見えました。犬でしょうか、それとも狐の子でしょうか。いいえ、そのどちらとも、どこか違う気がします。こんな不思議な生き物を、私はこれまで見たことがありませんでした。
「こんばんは。あなたたち、どこから来たの?」
私が声をかけながら、そっと一歩ふみだすと。
ころん、と、毛玉たちは転がるように、ちょっとだけ逃げました。
「あら」
私が立ち止まると、毛玉たちもぴたりと止まります。それならばと、くるりと背を向けたら——今度はころ、ころ、と、うしろから律儀についてくるのです。振り向けば止まり、歩きだせばまた追ってくる。近づけば逃げるくせに、離れれば追いかけてくる。まったく、忙しないうえに、欲張りな子たちでした。
「もう。近づいていいのか、いけないのか、はっきりしてちょうだいな」
私が、暮れなずむ泉のほとりで、この白銀の毛玉たちと、世にも珍妙な追いかけっこを演じていた、そのときでした。
「——何を、している」
低い声に、私は飛び上がりました。振り向くと、いつのまにか、当主さまが、木立の向こうに立っておられたのです。朝に山を下りたばかりだと思っていたのに、日暮れにまた登ってこられたらしい。手には、狩りの帰りらしい、大きな山鳥。
「と、当主さま。いつのまに」
「……あなたが、なかなか下りてこないと、ホルガーが気を揉んでいた」
まあ。それで、わざわざ様子を見に。……このお方は、ほんとうに、過保護なのです。私が少し帰りが遅いだけで、わざわざ暗い山道を登ってくるだなんて。
「この子たちが、泉に。犬でも狐でもなくて、なんだか、光るんです」
私がそう言うと、当主さまは、毛玉たちに、じっと目をやりました。
その、とたんです。
二匹のうち、片方——口をへの字に結んだ、仏頂面のほうが。ふらり、と当主さまのほうへ寄っていって。その足もとに、ちょこんと、腰を下ろしたのです。あれほど私からは逃げ回っていたくせに。
「まあ。あなたには、懐くんですね」
当主さまは、足もとの毛玉を見下ろして、少し、けげんそうな顔をしました。毛玉も、ふい、と当主さまを見上げます。
「…………」
「…………」
無口な男と、無愛想な毛玉。二つの仏頂面が、暗がりで、じっと見つめ合っている。なんだか、妙におかしくて、私は、ぷっと吹き出してしまいました。
その夜は、当主さまが、屋敷まで送ってくださいました。提灯の灯りをたよりに、二人、裏山の道を下りていく。うしろから、毛玉たちが、ころ、ころ、と、鳥居のあたりまでついてきて。そこで、名残惜しそうに、座り込みました。
「……妙な山だ」
当主さまが、ぽつりと言いました。
「ええ。でも、いい山です。あなたの山は」
私がそう返すと、当主さまは、また、あの、聞こえるか聞こえないかの声で、何かをつぶやいたようでした。けれど、夜風にまぎれて、うまく聞き取れませんでした。
* * *
あくる朝のことです。
屋敷から裏山を登って、いつものように社へ着いた私は、鳥居のほうを見て、思わず足を止めました。
毛玉たちが、いたのです。それも、ゆうべ別れた、鳥居の下。しかも今度は、参道をはさんで、きっちり左右にひとつずつ。まるで、門番のように。二つとも背すじをのばし、じっと参道の先を見すえています。
……なんだか、妙に、様になっていました。
おもしろいのは、その二匹、よくよく見ると、顔つきがまるで違うのです。右側の子は、口をあんぐりと開けて、へへ、と笑っているみたい。左側——ゆうべ当主さまに懐いた子は、口をへの字にきゅっと結んで、いかにも仏頂面。同じ毛玉から生まれたようにそっくりなのに、かたや陽気、かたや気むずかしげ。まるで、お日さまとお月さまを、ひとつずつ、社の門に飾ったようでした。
「聖女さま。この子ら、なんですかい」
朝いちばんの参拝に来たおじいさんが、目をまん丸にして尋ねてきました。
「ええと……守り神さま、でしょうか」
自信なさげに、そう言うのが精いっぱいでした。けれど不思議なもので、いざ口に出してみると、あんがい、しっくりくるのです。神社に、守り神。うん。悪くない収まりぐあいでした。
試しに私は、二匹をそっと、社の外へ追いやってみました。もとの山へお帰り、と。ところが二匹は、こちらの手をひらりとかわして、するすると、またもとの門番の位置へ戻ってしまう。何度やっても、結果は同じ。どうやらこの子たちは、この場所を、いたく気に入ってしまったようでした。
「……まあ、いいでしょう。守り神さまが二匹も来てくださったなんて、こんなに縁起のいいことは、ありませんもの」
* * *
その日の昼下がり。私は縁台を囲んで、常連の領民たちと、毛玉たちの名前を考えていました。
「守り神さまなら、ちゃんとしたお名前がなくちゃねえ」
「うんと立派なのを、つけてやんなよ。『白銀の守護獣』とか」
「かたっ苦しいねえ。もっと、ころんと可愛いのがいいよ」
「じゃあ、『もふ』と『ふわ』なんてのは」
「食いもんの名前みたいだよ、それじゃあ」
あれやこれやと名前の案が飛び交うたびに、右の毛玉は、へへ、と楽しげに小首をかしげ、左の毛玉は、気に入らないとばかりに、ふん、と鼻を鳴らします。まるで、自分たちの呼び名を、しっかり吟味しているみたい。……この子たち、見た目のわりに、案外、うるさ型なのかもしれません。
私は縁台から二匹を、じっくりと見比べました。口を開けて笑う子と、口を結んだ子。開いた口と、閉じた口。……ひらいた、とじた。
あ。これは、狛犬ですね。
私の頭のなかで、ぽん、と何かが弾けました。
「開いた口は『あ』の形。閉じた口は『うん』の形。だから——アンと、ウンです」
「…………」
にぎやかだった縁台が、しん、と静まりかえりました。
ちょうど、頼んでおいた木札を届けに来ていたガンツさんが、その太い眉を、ぐぐっと持ち上げて、うめくように言いました。
「お社さま。あんた、もうちっと、ひねれ!」
「ひねって、どうするんです。いい名前というのはね、ガンツさん、そのまんまなのが、いちばんなんですよ」
これは、社の名前を決めたときと、まったく同じ理屈でした。軒に鈴を吊るしたから、鈴の社。口の開いた子がアンで、閉じた子がウン。ひねりも飾りも、ありません。けれど、そのまんまだからこそ、一度で覚えられて、すっと口になじむ。名前というのは、そういうものだと、私は思うのです。
と、そこへ。
「アンと、ウン、か」
いつのまに来ていたのでしょう。縁台のうしろに、当主さまが立っていました。今日も今日とて、山へ登ってきておられる。——このお方、いったい一日に何度、この裏山を上り下りすれば気がすむのでしょう。
当主さまは、二匹をちらりと見て、それから、ぼそりと。
「……悪くない」
その、ひとことに。私は、思わず、にっこりしてしまいました。この方の「悪くない」は、世間のふつうの「悪くない」より、ずっと上等な褒め言葉。つまり、たいそうお気に召した、ということなのです。
ガンツさんが「領主さままで、そのまんま派ですかい」と、がっくり肩を落としたのは、ご愛敬でした。




