謹んで、お受けいたします(二) 誉れは、いくら噛んでもお腹が膨れません
そうして、光珠測定が滞りなく終わると、拍手が引き、会場の空気が、すっと改まりました。
今宵の議題は、光珠測定だけではないのです。もう一つ——こんな晴れの舞台で発表される、大事な用件が残っている。私の、婚約についての話が。
階段の上に進み出たのは、ユリウス殿下。銀糸の刺繍をびっしり施した青の上着、胸には光神教の紋章。この国の王太子であり、十年前、私がまだ幼い頃に取り決められた——私の、婚約者です。
殿下の視線が、ちらりと、去っていったプリメラさまのほうへ流れたのを、私は見逃しませんでした。
なるほど。史上初の聖灯級が現れた今夜こそ、燭台級の許嫁を切り捨てる、絶好の機会というわけですね。ついでに公衆の面前で恥をかかせて、ご自分の器の大きさでも示せれば、一石二鳥。殿下も、なかなかに商売上手でいらっしゃる。
——そして、冒頭に戻ります。
「貴様との婚約を——破棄する!」
私は、最上級の礼で、それを謹んでお受けした、というわけです。
会場のあちこちから、戸惑いのささやきが漏れていました。婚約破棄を言い渡された聖女は、泣き崩れるか、すがりつくか、せめて青ざめて震えるもの。皆さん、そう相場が決まっていると思っておられたのでしょう。まさか、破棄する側より先に、最上級の礼で快諾されるとは。
殿下のお顔が、みるみる赤くなっていきます。せっかくの決めポーズが、これでは形無しです。
「な……なぜ、泣かんのだ! 貴様、悔しくないのか!」
悔しい、というお言葉が、正直、うまく飲み込めませんでした。十年ぶんの鎖を、たった今、外していただいたばかりなのに。
「めっそうもございません。殿下のご英断に、心より感謝申し上げます」
これは本心でした。掛け値なしの、百パーセントの本心です。けれど殿下は、まるで馬鹿にされたかのように、ますますお顔を赤くなさいました。人の善意というものは、なかなか正しく伝わらないものですね。
……もっとも、本当のことを言えば、私も、少しだけ怖くはありました。
これから、どうなるのか。当てなんて、何もない。頭を下げた姿勢のまま、膝は、正直なところ、少し笑っています。
でも。ここで泣いてしまったら、この十年、歯を食いしばってきた私が、あんまり可哀想だ。
だから私は、震える膝に力を込めて、頭を下げ続けました。
思えば、長い十年でした。
毎朝三時に起きて、井戸の水を汲むところから一日が始まります。凍える冬、指がかじかんで桶の縄が握れなくても、水は汲まねばなりません。それから上級聖女がたの支度、朝の祈祷、そして大勢を癒す列作業。
列作業、というのは要するに、怪我人や病人が長い行列を作り、聖女がその前にずらりと並んで、流れ作業で次々と祈りをかけていく——というものです。
「もっと早く! 次! 次だ、次!」
監督の神官は、いつもそう急かします。
けれど私の祈りは、そういうふうにはできていないのです。手を清め、目の前のこの人の痛みが引くところ、笑って歩いて帰るところを、きちんと思い浮かべてから込める。丁寧にやればやるほど、私は叱られました。
「お前は遅い! 数をこなせ、数を!」
急かされて数をこなそうとすると、今度は光がいっそう弱くなる。強く速い光こそが正義とされるこの教会で、私はいつも列のいちばん最後、いちばん叱られる場所に立っていました。
夕食は、固いパンが一切れ。給金は、と尋ねれば、「奉仕の誉れ」という立派なお言葉が返ってきます。誉れは、残念ながら美味しくありません。いくら噛んでも、お腹は少しも膨れないのです。
前世の記憶が戻ったのは、この世界の孤児院に拾われて、間もない頃でした。
私は、佐伯鈴。二十二歳。日本の山里にある、氏子の減った小さな神社の、一人娘。傾いた社の屋根を直すお金を稼ぐために、昼は町の内職に出て、夜は御神灯の油を惜しみながら帳簿とにらめっこをしていた——そういう、貧乏神社の巫女だったようです。
早朝の掃き掃除。柄杓ですくう冷たい御神水。すり減った参道の石段。そして、年に一度お参りに来る氏子のおばあちゃんたちの、「また来年ね」という、あのやわらかな声。
祖母は、いつも言っていました。祈りというのはね、鈴。こちらから授けるものじゃないよ。あの人たちが自分で抱えてきた願いに、そっと手を添えてあげるだけのものなんだ、と。
目が覚めたら、私はこの世界の孤児院にいました。そして胸もとには、前世の形見によく似た、古い鈴が一つだけ握られていた。なぜこれだけが手もとにあったのか、理由は今も分かりません。ただ、この鈴だけは——教会の誰にも、とうとう取り上げられませんでした。
教会には、「罰当番」というものもありました。
何か失敗をすると、薄暗い倉庫にこもって、ひたすら「奉納札」なるものを書かされるのです。細長い木札に、決められた文言と印を、黙々と写していく作業。
「飾り札だ。数だけ書け。丁寧になんぞ書く必要はない」
監督の神官は、いつもそう言い捨てて出ていきます。十年で、いったい何千枚書いたのか、もう自分でも数えきれません。何に使うのかも知らされないまま、ただ書いては、倉庫の棚に積み上げる。妙な仕事だとは思っていましたが、聞いても答えてもらえないので、深くは考えませんでした。
ただ、一つだけ、不思議なことがありました。
「スズさまの札、なんだか一年経っても、手ざわりが温かい気がします」
倉庫番の下働きの子が、いつだったか、こっそりそう言ったのです。
気のせいでしょう、と私は笑って流しました。木札が温かいわけがありません。それに、丁寧に書けば怒られる教会で、そんな取り柄があったところで、また「遅い」と叱られるのがオチ。深追いする気にも、なりませんでした。
「スズ姉、今夜も代わってくれるんですか……?」
その札書きの罰当番を、私はよく肩代わりしていました。
声の主は、後輩のミレイユ。べそをかきながら、紙束を胸に抱えて私のところへやってくる。よく失敗をして、よく泣いて、そしてよく食べる。三拍子そろった、手のかかる妹分のような子です。
「いいわよ。あなた、字を書くのは向いてないもの」
「向いてない、で片付けないでくださいよぉ……」
「大丈夫。あなたは食堂の配膳当番のほうが、ずっと向いてる。手際がいいもの」
「それ、褒められてる気がしません!」
ミレイユは涙目のまま、それでも紙束を私の腕に押しつけてきます。押しつけながら、罪悪感でまた半泣きになっているのだから、世話が焼けます。
「スズ姉、そんなに人の仕事ばっかり引き受けてたら……いつか背中にお札貼られて、売られちゃいますよ」
「あら、それは困るわね。——せめて、高く売ってほしいわ」
「気にするの、そこ!?」
困りますとも。ただ、いざ売られるとして、私の値段が銅貨何枚になるのか、ほんの少し気になってしまうのは、たぶん、前世からの悪い癖なのだと思います。
——そんな十年が、たった今、終わったのです。
殿下の一言で。公衆の面前で。しかも、向こうからお願いして、切ってくださった。
これを僥倖と言わずして、なんと言いましょう。膝の震えなんて、じきに止まります。




