謹んで、お受けいたします(三) 呪われた辺境へ追放。——お食事は三食、付きますか?
* * *
「——お待ちください」
その一声で、私は思い出の海から、華やかな広間へと引き戻されました。
声の主は、大司教ゲルニウスさま。恰幅のよいお体に、金糸の縫い取りをたっぷり施した豪奢な法衣。教会でいちばん偉いこの方が、婚約破棄でざわつく会場を静めるように、片手を挙げて進み出ておられます。
「破棄されし燭台級スズランを——ノルデン辺境伯領の奉仕へ、転出させる」
今度こそ、会場が大きくどよめきました。
先ほどの、婚約破棄への同情のざわめきとは、質が違う。憐れみに、うっすらと恐れの混じったどよめき。
「ノルデン……あの、呪われた辺境伯の?」
「聖女が十二人も逃げ帰ったという、あの土地じゃありませんの」
耳をすませていると、噂の中身は、なかなかに賑やかでした。いわく、当代の辺境伯は、触れたものを片端から凍らせる呪いを背負っている。いわく、派遣された聖女は皆その呪いに返り討ちに遭って逃げ帰った。いわく、領地じたいが、年じゅう雪と魔物に閉ざされた、人の住むところではない——。
尾ひれに尾ひれのついた話ばかりで、どこまでが本当やら。けれど、話せば話すほど、皆さんの顔には「あそこへ送られるくらいなら、いっそ」という同情が濃くなっていく。
私はといえば、その噂話よりも、はるかに気にかかる点が、一つございました。すっと片手を挙げ、大司教さまに、なるべく礼儀正しくお尋ねします。
「あの、お尋ねしてもよろしいですか。それは——住み込みですか? お食事は、三食付きますでしょうか?」
二度目のドン引きが、会場をしんと包みました。
皆さん、そんなに驚くところでしょうか。だって、大事なことです。教会でのただ働き、パン一切れの暮らしと比べれば、住み込みで三食付きなど、破格の好条件ではありませんか。呪いがどうとか辺境がどうとか、それはそれとして、まず衣食住は確認しておかねば。
「スズさま……あんな辺境に送られて、お可哀想に」
近くにいた同輩の聖女が、そっと耳打ちしてきました。目には、うっすら涙まで浮かべています。優しい子です。
「大丈夫よ。三食付きだったら、たぶん、王都にいるより太って帰ってくるわ」
「そういう問題では……」
そういう問題なのです。少なくとも、私にとっては。お腹が満ちていれば、たいていのことは、なんとかなるものですから。
その時でした。
大司教さまの目が、ほんの一瞬——まばたきひとつ分だけ、揺らいだのを、私は見ました。
(変なの。追い出したいのは、あちらのはずなのに。……なんで今、あの方、困ったようなお顔をなさったのかしら)
けれど、それを考える間もなく、大司教さまの表情は、すっと元の威厳あるものへ戻ってしまいました。
ふと、強い視線を感じて、私は会場の隅に目を向けました。
柱に背をあずけて、長身の男の人が一人、立っていました。
黒。上着も、外套も、手袋も、何もかもが夜の色。金糸や宝石で着飾った貴族たちの中で、その人だけが、墨を一滴落としたように沈んでいます。腰には、飾りの一切ない、実用の剣。宮廷の男性がたが提げている、宝石だらけの儀礼剣とは、まるで違う。あれはたぶん、本当に人を斬るための剣だ。
年の頃は、二十四、五でしょうか。短く整えた黒髪の下、切れ長の目は、冬のよく晴れた朝の空のような、澄んだ色をしていました。冷たいのに、どこまでも透きとおっている。笑わない口もと。手袋をした手は、この暖かい広間の中でも、外される気配が少しもありません。誰とも触れず、誰にも触れさせない。そう決めているような、凍てついた気配を、その人はまとっていました。
(——きれいな人)
素直に、そう思ってしまいました。氷でできた彫像みたいな。近づいたら、指を刺されそうな。
同時に、なんだか寂しそうな人だ、とも思いました。これだけ大勢の人がいる華やかな広間で、その一角だけ、しんと静まりかえっている。まるで、真冬の湖のほとりに、たった一人で立っているような。
その人と、一瞬、目が合いました。
すると、笑わないはずのその口もとが、ほんの少しだけ、動いたのです。笑いを、必死にかみ殺しているような、そんな動き。
(あ。……いま、笑いましたね? この方、私の返事で、笑いましたね?)
名前も、身分も存じ上げません。けれど、なんだか妙に、腹が立つような、それでいて、ちょっとだけ嬉しいような、うまく言えない気持ちになりました。
人が真剣に食事の心配をしているところを、そう、あからさまに笑うものではありませんよ。——次にお会いすることがあったら、ひとこと申し上げねばなりません。




