謹んで、お受けいたします(四) 「……いい返事だった」って、どちらさま?
* * *
その夜のうちに、私は教会の自室へ戻り、荷造りを始めました。
「スズ姉の罰当番、これから……誰が代わるんですか」
部屋の入り口で、ミレイユがぐずぐずと泣いています。私は鞄に着替えを詰めながら、振り返らずに答えました。
「あなたが失敗しなければ、罰当番なんて出ないでしょう?」
「それができたら、こんなに苦労してません!」
もっともなご意見です。
鞄に収めるものは、そう多くありません。着替えの修道服が二着。胸にかけた古い鈴。そして、書きかけの家計帳。十年働いて、持ち出せるものがこれだけとは、我ながら、いっそ清々しいほどの少なさでした。
家計帳だけは、しっかり底に収めます。前世からの癖で、私はどんなに貧しくても、一日の出入りを一文残らず書いておかないと落ち着かないのです。もっとも、この十年の給金の欄は、見事に空白続きでしたが。次の頁からは、少しは数字が書き込めるといいのだけれど。
「文を書くわ。だから、そんなに泣かないの。……切手代は、あ。私、無給だったわね」
「そこ、しんみりするところですよ! なんでお金の話にするんですか、スズ姉!」
思わず、ふきだしてしまいました。ミレイユも、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、つられて少し笑います。この子の泣き顔と笑い顔は、昔から、いつも一緒にやってくるのです。
廊下の向こうからも、事情を聞きつけた見習い聖女たちが、ぱらぱらと顔を出して、代わる代わる声をかけてくれました。
「スズさま、お元気で」
「辺境って、すごく寒いんでしょう? 風邪、ひかないでくださいね」
「あの、お守りみたいなもの、何か置いていってくれません? ……なんとなく、効きそうだから」
「お守り屋じゃないのだけれどねえ」
軽口を交わしながら、それでも一人ひとりの顔を見ていると、少しだけ、胸の奥があたたかくなりました。居心地のいい場所ではなかったけれど。それでも私を「スズ姉」と呼んで慕ってくれる子たちが、確かにいたのです。
荷造りを終えて、私は鞄を胸に抱き、床にしゃがみ込んで、ミレイユと目の高さを合わせました。
「ねえ、ミレイユ。あなたは、ちゃんとご飯を食べなさいね」
言えるうちに、一つだけ、本音を置いていくことにしました。この子は、泣くとご飯を抜いてしまう癖がある。お腹が空くと、また泣く。それを見ていられる人が、明日からもう、いなくなってしまうのだから。
「スズ姉……っ」
「大丈夫。私、こう見えて、けっこう図太いから」
ミレイユは、ずびっと洟をすすると、修道服の隠しから、何かを取り出しました。布に包まれた、固いパンが一切れ。今夜の、彼女の夕食のはずでした。
「これ……道中、お腹すいたら」
「駄目よ。あなたのぶんでしょう」
「スズ姉のほうが、お腹すくの、我慢できないくせに」
ぐうの音も出ませんでした。この子は、泣き虫のくせに、時々こういう的確なことを言うのです。
結局、私はそのパンを、ありがたく頂戴しました。押し返すこともできたのですが……正直に申し上げると、明日の朝ごはんの当てが、まだ何もなかったものですから。人の施しに甘えるのは、あまり得意ではないのですけれど。今日ばかりは、そのお腹が、心に勝ちました。
「ありがとう。……大事に食べるわ」
「はいっ」
ぎゅっと抱きしめると、腕の中の小さな体が、震えていました。私も、少しだけ鼻の奥がつんと痛みましたが——その感傷も、明日から始まる新しい暮らしへの、ほんのりとした期待に、じきに押し流されていったのでした。
だって。住み込みで、三食付き、かもしれないのですから。
* * *
出立の朝は、雲ひとつない、よく晴れた空でした。旅立ちにしては、皮肉なくらいの上天気です。
王宮の通用口から、荷馬車の待つ中庭へ。長い回廊を鞄を抱えて歩いていると、向こうから、一人の男の人がこちらへ歩いてくるのが見えました。
——昨夜の、あの黒衣の方でした。
今朝も、まとう色は夜のように黒い。手袋をした手を後ろに組み、まるで足音というものを持たないかのように、静かに、まっすぐ近づいてきます。私は軽く会釈だけをして、通り過ぎようとしました。どこのどなたかは、結局分からずじまいでしたので。
その、すれ違いざま。
低く、けれど不思議とよく通る声が、ひとつ、私の耳をかすめました。
「……いい返事だった」
え。
はっとして振り返った時には、もう、その人の背中しか見えませんでした。黒い後ろ姿が、朝日のさす回廊の向こうへ、迷いのない足取りで遠ざかっていきます。
——は? どちらさま!? というか、聞かれてたんですか、あれ!?
問いただす間もなく、その背中は角を曲がって、消えてしまいました。狐につままれたような気分のまま、私は中庭へと出ました。
私を運ぶための荷馬車が、一台だけ、ぽつんと待っています。妃候補だった聖女を辺境へ送るにしては、ずいぶん簡素な見送りです。荷台には藁が敷かれているきりで、屋根もありません。
「あんたが、例の……ノルデンへ行く聖女さんかい」
手綱を握った御者のおじさんが、私の顔を見るなり、痛ましそうに眉を下げました。まるで、これから墓場へでも運ぶような顔つきです。
「はい。よろしくお願いします」
「……達者でな。あっちは、その、いろいろと厳しいって話だから」
言葉を濁しながら、おじさんはそっと目をそらしました。よほど恐ろしい噂を聞いているのでしょう。けれど私にとっては、藁敷きの荷台だろうと、屋根なしだろうと、これから三食付きの暮らしが待っているかもしれない、希望の馬車なのです。見送られる筋合いは、あまりありません。
私は荷台に乗り込み、胸の古い鈴を、指先で、ちりん、と一つ鳴らしました。澄んだその音は、前世の境内で聞いたのと、少しも変わりません。不思議と、心が凪いでいきます。
追放だろうと、辺境だろうと、呪いだろうと。とにかく私は、十年ぶりに、自由の身なのです。ただ働きも、罰当番も、パン一切れの夕食も、今日でおしまい。
「さて。——新しい再就職先、とくと拝見してやろうじゃないの」
晴れわたった春の空の下、荷馬車は、がたごとと音を立てて、北へ向かって走りだしました。




