【幕間】鬼が笑う
あたしは、お腹がいっぱいだった。
マーサさんのお家の、あたたかい居間。夕ごはんにシチューを三杯もおかわりして、パンもまだ二つ手もとに残してある。この町に来てから、あたしは毎日こんなに食べていいのかと、こわくなるくらい食べさせてもらっている。教会にいた頃の硬いパン一つとは、まるで別の世界だった。
スズ姉はお屋敷に住み込みだから、夜は社にいない。だから今夜は、あたしひとりのお泊りのはずだった。——はずだったのだけど。
日が暮れてから、なぜだか、お家におばさんたちが集まりはじめた。
ひとり、ふたりと門前町の奥様がたが、酒瓶やお漬物や干した果物を手にぞろぞろと。マーサさんの居間は、あっという間にいっぱいになった。みんなもう頬を赤くしてやけにうれしそうだ。
「さあて」
マーサさんがどん、と酒瓶を卓に置いた。
「お社さまが、いない夜だ。……つまり、言いたい放題の夜ってことだよ!」
わっ、とおばさんたちが沸いた。あたしにはマーサさんが、あまい甘酒をなみなみと注いでくれた。
あたしは干した果物をもぐもぐしながら、ぽかんとしていた。なんの話だろう。
「ねえねえ、ミレイユちゃん」
いちばんふくよかな奥様が、ずいっとあたしのほうへ身を乗り出してきた。
「あんた、聖女さまの妹分なんだろ? だったら、聖女さまから聞いてるはずだよ。……ぶっちゃけ、どうなのさ。聖女さまと、領主さまは」
「え」
「所帯を持つ気はあるのかい、ないのかい!」
あたしは甘酒をのどにつまらせかけた。
所帯。……つまり、スズ姉とあのこわい顔の辺境伯さまが。ご夫婦になるかどうか、ってこと?
「い、いえ、あたしそんな詳しいことは」
言いかけて、あたしははっと思い出した。今日の、昼間のこと。焼け跡で、スズ姉と辺境伯さまが、話していた、あの時。辺境伯さまが、スズ姉のことを——。
あたしの顔が、きっとなにか言いたげになっていたのだろう。
おばさんたちの目が、いっせいに光った。
「なんだい」「なにか、あるね?」「お言い、ミレイユちゃん!」
「……あの。今日、辺境伯さまが。スズ姉のこと、『スズ』って呼んでて」
しん、となった。
次の、瞬間。
「きゃああああ!」
居間じゅうが、悲鳴みたいな歓声で揺れた。あたしはびっくりして、甘酒をこぼしそうになった。
「『スズ』だって!?」「呼び捨てだよ、呼び捨て!」「あの、女に一言も口をきかなかった領主さまが!」「進んでる、進んでるよ!」
おばさんたちは、酒をあおってますます盛り上がった。あたしはただぽかんとその渦のまん中にいた。
「こりゃあ、祝言も近いね!」
「気が早いよ、あんた。……でも、そうさねえ。やるなら、春の花の頃がいいねえ。花嫁衣装は、やっぱり白だ」
「子どもは、何人だい」
「そりゃ、あの領主さまの子だ。三人は、堅いね!」
「男の子なら、あのこわい顔がうつるのかねえ」
「やだよ、赤ん坊が、あのむすっとした顔で生まれてきたら!」
どっ、と笑いがはじけた。
あたしはあわあわ、と両手を振った。
「あ、あの、待ってください! スズ姉は……なんでも、ないのって」
「いいんだよ、そんなの!」
ふくよかな奥様が、あたしの肩をばしばし叩いた。
「本人たちがぐずぐずしてるぶんは、あたしらが先に楽しむのさ! これが、門前町のいちばんのごちそうなんだからね!」
……この人たち、スズ姉のことが大好きなんだ。
あたしはなんだかじん、としてしまった。
と。それまで、にこにこ聞いていたマーサさんが。ふいに、声をひそめた。
「……あんたたち。これはここだけの話なんだけどね」
おばさんたちがしん、と身を乗り出す。
「棟梁のガンツがね、この前、お屋敷の家宰のホルガーさまに、こっそり頼まれたんだと。——やわらかい白木を、一山」
「白木?」「なんに、使うのさ」
マーサさんは、たっぷりためを作ってから言った。
「……赤ん坊の揺りかごだとさ」
……間があって。
「「「えええええ⁉」」」
こんどの悲鳴は、さっきの三倍は大きかった。
「揺りかご!?」「いつのまに!」「もう、そこまで進んでいるの!」
「それだけじゃ、ないよ」
マーサさんはもう止まらない。
「お屋敷の女中さんが、見たんだとさ。ホルガーさまが、夜な夜なちくちく縫い物してるのを。……赤ん坊のよだれかけをさ。しかも、狛犬のぶんまで」
「「「きゃああああ!!」」」
あたしは思わず立ち上がっていた。
「よ、よだれかけ!? 狛犬の!? な、なんで狛犬の!」
「知らないよ! あの、しかつめらしい家宰さまが、用意したいんだろうさ!」
もうおばさんたちは、笑いすぎて涙をふいていた。ひとりなんて椅子からひっくり返って、足をばたばたさせている。あたしもなんだかおかしくなってきて、お腹を抱えて笑った。
よだれかけ。狛犬の、よだれかけ。家宰さまが、夜中にちくちく縫っている。
……このお社の、まわりの人たちは。
どうしてこんなにあたたかいんだろう。
あたしは笑いながら、ほんの少しだけ泣きそうになった。
教会では、スズ姉はいらない子だった。遅い、役立たず、と言われつづけて、あげくに婚約を破棄されたその夜、辺境へ追い出された。あたしが自分のパンを分けて、泣きながら送り出した、あのスズ姉が。——それが、いま。
町じゅうの奥様がたが、お酒まで飲んで、スズ姉の幸せを自分のことみたいに大騒ぎしている。気の早い家宰さままで、赤ん坊のよだれかけを、こっそり縫っている。
スズ姉は、ちゃんと居場所を見つけたんだ。
こんなにあったかい場所に、たどりついていたんだ。
「……ミレイユちゃん? あんた、泣いてるのかい」
「な、泣いてないです! ……甘酒が、あまくて目にしみただけです!」
「はいはい。……ほら、お食べ」
マーサさんが笑ってあたしの前にあたたかいパンを、また一つ置いてくれた。
あたしはそれを両手でつかんで、かぶりついた。
あったかい。……やっぱり、この町のパンは世界一だ。
おばさんたちの笑い声は、夜ふけまで続いた。スズ姉のいないところで、スズ姉の話でこんなに盛り上がって。……明日、スズ姉にこの話をしたら、きっとあのまんまるの目をまわして、真っ赤になるんだろうな。
それはぜったい内緒にしておこう。
……ううん。やっぱりちょっとだけ教えてあげようかな。
あたしはパンをほおばりながら、そんなことを考えて、ひとりでにやにやしてしまったのだった。
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