ミレイユの脱走(四) あたたかい光の、裏側で
——と。
ふと視線を感じて、振り向くと。
少し離れたところで、ミレイユがこちらをじいっと見ていた。
その顔が、なんだかへんてこな具合にこわばっている。私とジークさまを、交互に見て、目をまんまるにして。
「……ミレイユ? どうかした?」
「……スズ姉」
ミレイユが、そろそろと近づいてきて。私の袖をつんつん、と引っ張った。そして、声をひそめて言った。
「……いま。辺境伯さまが、スズ姉のこと」
「うん?」
「『スズ』って呼びましたよね」
私の顔が、かあっと熱くなった。
……そういえば。あの人は、この頃、私のことを「お前」でも「スズラン」でもなく。ただ、「スズ」と呼ぶようになっていた。いつからだろう。ううん。いつからなんて、分かっている。あの焼け跡の宵から。あの人が「好きだ」と言った、あの夜から。
「……な、な、なんでもないの。ミレイユ。それより、縄の張り方を見て——」
「なんでもなく、ないですよ!」
ミレイユが、ずいっと身を乗り出した。目が、きらきらと輝きはじめている。
「え、え? なに、この空気。スズ姉、辺境伯さまと、いつのまに。……えええ⁉」
「ミレイユ! しっ、静かに!」
私はあわててその口をふさごうとした。ジークさまは、こちらの騒ぎをちらりと見て、それから、なにも聞かなかったふりをして、すい、とそっぽを向いた。……その耳がほんの少し赤いことに、私は気づかないふりをした。
ミレイユは、それからしばらく、にやにやと私を見ては意味ありげにうなずいていた。まったく、もう。この子ときたら、パンでお腹がふくれたら、今度はこれだ。
でも。
そのはしゃぐ顔が、教会にいた頃の、あの、いつもびくびくしていた顔とはまるで違っていて、私は、なんだかそれだけで、この子が逃げてきてくれて、本当によかったと思ったのだった。
あくる日から、ミレイユは社の手伝いを始めた。
まずは、手水の案内から。参拝に来た人にひしゃくの使い方を教えて、手と口を清めてもらう。それから、お守りに使う木の札の下ごしらえ。小さな木の板を、なめらかに磨く仕事だ。
ミレイユは、なんでも一生けんめいにやった。やりすぎるくらい、一生けんめいに。
けれど見ていると、その手つきが、いつもせかせかと急いでいた。手水のひしゃくを、大急ぎで渡そうとする。木札を、大あわてで磨こうとする。まるで、何かに追い立てられているみたいに。
教会の、癖だった。
あそこでは、なにもかも急がされた。祈りも、仕事も、食事も。遅い、と叱られる。もたもたするな、と叱られる。だから、この子の体には、「急げ」がしみついてしまっている。
私はその小さな背中にそっと声をかけた。
「ミレイユ」
「はいっ。すみません、遅くて、いますぐ——」
「ちがうの」
私はそのこわばった肩に、手を置いた。
「ここでは、ね。……ゆっくりで、いいの」
ミレイユの手が、ぴたりと止まった。
「急がなくて、いいの。祈りも、仕事も。……ゆっくり、ていねいに。そのほうが、ちゃんと心がこもるから。ここは、そういう社なの」
ミレイユが、ゆっくりと顔を上げて私を見た。
その大きな目に、みるみる涙が盛り上がっていく。今度は、おなかが鳴る前に。
「……ゆっくり、で」
「うん」
「ゆっくりで、いいって。……あたし、生まれてはじめて言われました」
そう言ってミレイユは木札を握りしめたまま、ぽろぽろと泣いた。
私は、その頭をそっとなでた。かわいそうに。この子はずっと「早く」しか、言われてこなかったんだ。早くしろ。遅い。役立たず。そんな言葉ばかりを浴びて。ゆっくりでいい、なんて、当たり前のことを、誰も言ってやらなかったんだ。
「……いっぱい、泣いていいのよ。それも、ゆっくり」
ミレイユはこくこく、とうなずいてしばらく泣いていた。
それから、ふしぎなことがあった。
泣きやんだミレイユが、磨きあげた木札を、ためしに一つ握って祈ってみたときのこと。その木札が、ほんのりと、あたたかくなったのだ。すぐには、光らない。派手さも、ない。けれど、じんわりと長くあたたかさが続く。
私のお守りと同じだった。
「……ミレイユ。あなた、もしかして」
私は、その木札を手に取って確かめた。まちがいない。この子の祈りは、遅くて、静かで長く続く。私と、同じ型。教会で、「燭台級」といちばん下に置かれる、あの型。
ミレイユが、しゅんとした。
「……あたしも、そうなんです。すぐ光らないから、教会では、ずっとだめな聖女だって」
「だめじゃ、ないわ」
私は、きっぱりと言った。
「その祈りは、いちばん長く人を守る祈りよ。教会がその値打ちを分からなかっただけ。……ここでは、あなたのその力が、いちばん役に立つの」
ミレイユの顔が、ぱあっと明るくなった。
私は、思った。教会には、きっとこの子みたいな子が、まだたくさんいる。すぐには光らないというだけで、下に置かれ、使い潰されてきた遅い祈りの子たちが。私は、その一人だった。ミレイユも、その一人だ。……いつか。いつか、あの子たちみんなの、居場所を。
その日のうちに、ガンツさんが仮の社務所の隣に、小さな小屋を建ててくれた。ミレイユの部屋だ。窓から焼け跡の造営地がよく見えた。
「ここがあなたのおうちよ」
そう言うとミレイユはまた泣いた。
まったく。うちの新入りは本当によく泣く。よく食べて、よく泣く。……でも、それでいいのだと思う。ここは、そういう社だ。ゆっくりでいい。いっぱい、泣いていい。おなかいっぱい、食べていい。そういう場所を、私は作りたかったのだから。
数日が、過ぎた。
造営は、少しずつ進んでいた。地面がならされ、縄が張られ、初めの太い柱を立てるための深い穴が、掘られはじめていた。私の引いたあの図面が、少しずつ本物になっていく。
その焼け跡の造営地の前で。
ロッコさんが、隊商の荷を降ろしながら、ふと声を低くした。
「……聖女さん。一つ、耳に入れておこうかね。王都で、妙な言い回しが流れはじめてる」
「言い回し?」
ロッコさんは王都で聞いてきたという、その言葉を、そのまま口にした。
「『破門された聖女を、囲い込み、脱走した聖女を、匿い、教会の使者を追い返した辺境伯』——」
私は、首をかしげた。
「……それ、ぜんぶ本当のことですけど」
「そこが、たちが悪いのさ」
ロッコさんは渋い顔で荷を担ぎ直した。
「事実は一つも間違ってない。破門された聖女は、あんただ。脱走した聖女は、あの嬢ちゃんだ。使者を追い返したのも、ほんとのことだ。……だがな。本当のことばかりを、悪意で並べ替えると。それは、いつのまにか立派な罪状になる」
私は、言葉を失った。
張られたばかりの、地鎮の縄が、秋の風にかすかに鳴っていた。
そのすぐ向こうでは、ミレイユが木札を磨きながら鼻歌を歌っている。ガンツさんの槌の音が、こんこんと響いている。ここは、こんなにもあたたかいのに。こんなにもこれからなのに。
そのあたたかい光のすぐ裏側で。
遠い王都の暗いところから、なにか、冷たいものが静かにこちらへ手を伸ばしはじめていた。
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