王太子の裁可(一) 誰ひとり、その社を見た者はいない
王都に、冬の走りの雲が低く垂れこめた朝だった。
王宮の大広間は火鉢をいくつ並べたところで、底冷えがした。だが、寒いのはけっこうなことだ。人は寒ければ、話を早く終わらせたくなる。長々と考えこむ気も、失せる。わし——大司教ゲルニウスにとっては、そのほうがよほど都合がよい。
上座では王太子ユリウスが、ゆっくりとうなずいてみせている。
「大司教。申したき儀があると聞いた。……よい、申せ」
堂々とした声だ。もっとも、中身のなさを声の大きさで塗り隠しているだけ、ということには、当人だけが気づいておらぬ。わしは、ふかぶかと頭を垂れた。垂れた頭の下で、口の端がゆるみそうになるのを、こらえる。
「おそれながら、殿下。ならびに、ご重臣の方々。北の辺境で、いま捨ておけぬことが起きております」
声は、張らぬ。低く、静かに。そのほうがかえってよく通る。案の定、広間のざわめきが、水を打ったように引いていった。人を動かすのに、大声は要らぬ。要るのは間と順序だ。
「ノルデン辺境伯ジークヴァルドは、教会から破門された聖女を、みずからの領に囲うております。こたびは、教会を脱け出した聖女までを社に匿い、大聖堂の遣わした使者を追い返しました。あまつさえ、かの巫女は衆目の集まる場で、偽りの実演をもって、光神の御力をあざむいてみせたのでございます」
——さて。いまわしが並べたことは、その一つとして嘘ではない。
破門は、した。聖女を匿ってもおる。使者も、追い返された。実演も、あった。すべて、事実だ。……ただ、その事実をどの順に、どの言葉で並べるか。それだけで、辺境の貧しい社は、国に弓引く反逆の砦に化ける。真実を語ることと、真実で人を操ることのあいだに、矛盾はない。長い年月をかけてわしが磨きあげた、ただ一つの技だ。
「破門された聖女を囲い、脱走した聖女を匿い、使者を追い返し、神の御力をあざむく。——かの地の社は、もはやこの国の信仰に公然と弓を引く砦にございます」
重臣どもの間から、おさえきれぬどよめきが漏れた。よし、と胸のうちでうなずく。魚は、餌に食いついた。
「どうか、兵をお出しくださいませ。社を接収し、巫女と匿われた聖女の身柄を、大聖堂へお引き渡しいただきたく。これは国教のためのみにあらず、国の秩序のためのお願いにございます」
頭を垂れたまま、わしは上座の若い王太子の顔を、そっとうかがった。
* * *
広間はたちまち割れた。
「軽々に兵を出すべきではございませぬ」まっさきに声をあげたのは、財政をあずかる白髪まじりの重臣だった。「ノルデン領の税収は、この一年で倍にふくれ上がっております。呪われた不毛の地が、いまや国でも指折りの実りの地になろうとしている。そこへ兵を向けて、国になんの得がございましょう」
銭、銭、銭。わしは、黙って聞いておった。この男はいつも銭の話をする。銭で測れぬものがこの世にあることを、ついぞ知らぬまま老いた、哀れな男だ。
「得の話をしておるのではない」向かいから、押し出しのよい重臣が言い返す。「これは信仰の話でござる。国教への反逆を、税が上がったからと見過ごせば、この国の背骨が折れ申す。異教めいた社を野放しにしては、民に示しがつきませぬぞ」
——よく吠える。こちらは、わしの息のかかった男だ。飼い犬は、飼い主の望む方角へ、こちらが口を開かずとも、吠えてくれる。重宝なことだ。
そこへまた別の重臣が身を乗り出した。
「そもそも、かの辺境の社では、狛犬が人の言葉を話すと聞きますぞ」
「なんと。わしの耳には、巫女が雪の上を歩いても、足あとひとつ残さぬと」
「いやいや。魔物を手なずけて、下僕にしておるという話ではないか」
わしは内心あきれて聞いておった。狛犬が口をきく。巫女が宙を舞う。魔物を下僕にする。……ばかばかしい。だが——けっこうだ。おおいに、けっこう。噂は大きければ大きいほど、よい。人というものは、自分の目で見たものよりも、みなが恐れているものを、恐れる。
「——待たれよ」財政の男が、たまらず口をはさんだ。「それはまことにこの目で見た者がおるのか」
「……いや」
「……聞いた話で」
「わしも聞いた話でござる」
しん、となった。
わしは笑いをこらえるのに、いささか骨が折れた。誰ひとりとして、その社をこの目で見た者はおらぬ。当然だ。見られては、困る。あそこにあるのは砦でも邪教でもない。ただ貧しい聖女が一人せっせと祈りを配っておる、みすぼらしい社。それだけだ。……だが、その"それだけ"が、いちばん都合が悪い。真実というものは、いつも退屈で、地味で、そして恐ろしくない。恐ろしくないもので、兵は動かせぬ。だから——恐ろしく、してやったのだ。このわしが。
数字と、信仰と、見てきたような尾ひれ話。三つが、火鉢の熱気のなかで、ぶつかりあう。誰も、傾かぬ。結構なことだ。議論が長引けば長引くほど、最後にひとことで裁きを下す者が、いっそう偉く見える。——そのいちばん扱いやすい駒を、そろそろ動かすとしよう。わしは静かに上座へと目を上げた。
* * *
やがて重臣たちの目が、いっせいに上座へ向いた。
裁きを下すのはこの私、王太子ユリウスだ。だが、財政の重臣が並べた数字も、教会派の説く理屈も、正直どちらもさっぱりわからない。ただ、大司教がわざわざ頼みにきたから、何か理由があるんだろう。ゲルニウスの言うことは、いつだって正しいのだ。これまでも、そうだったからな。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
「大司教。……ひとつ、変に思うんだけど」私は頬杖をといた。「あの燭台級の聖女、そもそもあれを"もう要らん"と私に勧めたのは、お前だったよなぁ。婚約を解け、って。行き先の辺境を選んだのも、たしかお前だ」
「さようにございます」
「なのにいまさら、連れ戻せか。一度は捨てろと言ったのを、こんどは兵まで出して取り返せって。……なんか、おかしくないか」
重臣の何人かが、はっと顔を上げた。
だが、ゲルニウスは眉ひとつ動かさない。
「殿下。あのときお捨てになったのは、道ばたの石ころにございます。……なれど、その小石が、辺境で火種に化けました。国の信仰を焼きかねぬ火種に。石ころは放っておいてよろしいが、火種となれば踏み消さねばなりませぬ。拾い方が変わるのは、火種となったがゆえ。理の通ったことにございます」
「……ああ、そっか。石ころと火種では、話が別だな。うん、そうだな」
胸の引っかかりは、そのひとことでいともたやすく消えていった。さすがゲルニウスだな、奴がそう言うのなら、そうなのだろう。その先は自分で考える必要もない。まあ、兵を出すか出さぬかを決められるのは、この私ひとりだからな。
「……いいだろう。少し考えてみる。裁きは、あとだ」
もったいぶって、そう言ってやった。
* * *
議場を下がると、私は人払いをして、別室に婚約者を呼び出した。聖灯級の聖女、プリメラだ。
純白の衣のプリメラが、しずかに一礼して私の前に立つ。相変わらず、透きとおるように白い顔だ。……まあ、多少疲れて見えなくもないが、そんなことはどうでもいい。私が見たいのは、いつだってものごとのいちばん上だけなのだから。
「プリメラ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」我ながら、めずらしく言いよどんでしまった。「北の、辺境の巫女のことだ。お前はあの女を知っているだろう。教会は、討つべきだと言っている。……お前がそう言うのなら、私もそう決める。あれは討たれて当然の悪いやつなのか?」
いい問いだ、と自分でも思った。国の宝である聖灯級の聖女が「討つべし」と言えば、それがいちばん確かな裏づけになる。要するに、誰か確かそうな者に、太鼓判を押してほしいのだ。私はいつも、そうやって生きてきた。自分より確かに見える者に答えを預けて。
ところが。プリメラはすぐには答えなかった。
長い、長い沈黙のあと、あの女はなにかを遠くに見るような目をして、ぽつりと言った。
「……あの人の祈りは。遅いだけで、……本物です」
「……なに?」
「あの人の祈りは、たしかに遅うございます。目にも見えぬほど、ゆっくりとしか光になりません。けれど、まがいものだからではございません。ただ、遅いというだけ。あれは——本物の祈りにございます」
私は思わず婚約者の顔をまじまじと見た。……おかしい。これは、私が欲しかった答えじゃない。討つべきだ、と言ってほしかったのに。どうして、教会の頂点に立つこの聖女が、討たれようとしている女を、"本物"だなどと庇うんだ。
「お前は……教会の、聖女だろう。それが、どうして——」
「おたずねが、あの人の祈りのことでしたので。見たままを申し上げました」プリメラは、しずかに頭を下げた。「お気にさわりましたら、お許しください」
その声にはまるで揺らぎがなかった。……私はそれ以上、なにも言えなくなってしまった。確かな答えがほしくて呼んだのに、胸のつかえがかえってひとつ増えただけだ。私は居心地の悪さから逃げるように、話を切り上げた。
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