【幕間】お預け
悪くない日だ、と思っていた。
教会があの女から聖女の位を取り上げたと聞いたときは、正直剣の柄に手がかかった。だが乗りこむより先に、参道の民たちが勝手に片をつけていた。ガンツが樽の上でわめき、マーサがはやし立て、町ぜんぶが「私たちの聖女さまだ」と椀を掲げる。教会に捨てられた娘を、こうも誇らしげに拾い上げる町を、俺はほかに知らない。
俺のすることは、なにもなかった。ただ縁台のはしで甘酒をなめながら、その騒ぎをながめていればよかった。——それが存外悪くない気分だというのも、この一年で覚えたことのひとつだ。
スズランも、いつもどおりだった。
人混みによろけて、俺の手で支えられて、「甘酒しか飲んでません」とむくれる。そのなんの変哲もないやりとりが、俺にはなぜかひどく心地よかった。焦らず、こいつが自分から俺の隣に来る日を待つ。そう腹を括ったのは、つい昨夜のことだ。今日みたいな日を、いくつも重ねていけばいい。それでいい。
——そう思っていたのだ。宴が、たけなわになるまでは。
どうも、様子がおかしい。
気づいたのはマーサたちの輪から、スズランがそそくさと抜け出してきたときだった。顔が、ゆでだこのように真っ赤だ。俺は酌の礼のついでに声をかけようと、その前に立った。それだけのことだ。
「ひえっ」
妙な声を、出された。
それから、あの女は俺の顔をまるでまともに見ない。目が合いそうになると、あわててそらす。赤い顔をうつむける。挙動がいちいちおかしい。熱でもぶり返したかと額に手をのばせば——猫のように、うしろへ飛びのいた。
「な、なんでもないですっ。ちょっと、涼んでこようかと! 夜風に! はい!」
そう言い残して、逃げるように行ってしまった。
俺は行き場をなくした手を宙に浮かせたまま、その場に突っ立っていた。
……なんだ。
なにをした、俺は。
考える。今日あの女になにか無礼を働いたか。支えた手が乱暴だったか。いや、倒れられては困ると案じただけだ。それとも、体か。まだ本調子ではなかったのか。だがそれにしては、あの逃げ足の速さはどうだ。病人の動きではない。
では、なぜだ。なぜあの女は俺の顔を見ない。
気づけば俺は、空の椀を握りつぶしそうな力でにらんでいた。宴の笑い声が、やけに遠い。——怒らせたのなら詫びればいい。具合が悪いなら屋敷へ運べばいい。理由さえ分かれば、俺は動ける。
だがその理由がまるで分からん。
俺はそばに控えていた片腕の家令を、振り返った。
「ホルガー」
「はい、旦那さま」
「……どういうことだ。お前が待て、と言ったのだぞ」
俺は、つめ寄った。この男は俺に言ったのだ。焦るなと。急かさずあれが自分から来る日を待てばいいと。
「言われたとおり、俺は大人しく待っていた。指一本、無理押しはしていない。それがどうだ。——待っていたら、逃げられるようになったじゃないか。お前の言うことを、聞いたせいだぞ」
我ながら、子どもの言いがかりのようだった。だが、ほかにぶつけようがない。
ホルガーは、俺の剣幕にも眉ひとつ動かさず。それどころか、白いものの混じった顎ひげを、ゆっくりとなでて、
「ほっ、ほっ、ほっ」
と笑った。
「なにがおかしい」
「いえ、恋とは駆け引きでございますなあ」ホルガーは目を細めた。「旦那さま、そう、あわてなさいますな。——まずはお相手をよっく御覧なさいませ」
言われて、俺は宴の向こうへ目をやった。
スズランは子どもらに囲まれて、甘酒を配っている。——その顔が、まだ真っ赤だった。さっき俺から逃げたときの、あの赤さがちっとも引いていない。とふいにこちらを見た。目が合う。その瞬間あの女は、はじかれたように目をそらして、それきりそわそわと、あらぬ方を見上げてしまった。まるで上の空、というやつだ。
俺の胸に、ひやりと冷たいものが走った。
「……やはり、具合が悪いのではないか。あんな、赤い顔をして。熱がぶり返したのかもしれん」
「いいえ」
「では、なんだ。……まさか俺がなにか、嫌われるようなことをしたか。だから顔も見たくないほど——」
「旦那さま」
ホルガーが、俺のめずらしくうろたえた言葉を、やんわりとさえぎった。そして、さとすように言う。
「恋とは、おひとりでなさるものでは、ございません。お二人でなさるものでございます。旦那さまが想うておられるだけでは、片手落ち。——お相手にも旦那さまのことを、意識していただかなくては」
「……?」
「聖女様も、ようやく一歩進まれた、ということでございましょう。いやはや、……めでたい。まことに、めでたいことでございますなあ」
俺はその言葉の半分も飲みこめなかった。想う、意識、一歩、——それがあの逃げ足の速さと、どうつながるというのだ。
「……ホルガー」
「はい」
「ちゃんと分かるように説明しろ」
「ほっ、ほっ、ほっ」
食えない家令はそれきり笑うばかりで、とうとう、答えを寄こしはしなかった。
仕方なく俺は縁台に座り直して、また甘酒をなめた。……よく、分からん。あの女もこの家令もよく分からん。ただ、遠くで真っ赤になっているスズランから、どうしても、目だけは離せなかった。
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