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守りたいもの(一) 狛犬たちが、三日も山をにらんで唸っている

その日は、よく晴れていた。


 秋の空は高くて遠くの山のいただきまで、指の先でなでられそうなくらいくっきりと見えた。参道の石畳に落ちる木もれ日が、ゆらゆらと金色に揺れて、歩くたびに足の甲を温めていく。風は乾いていて、洗い立ての手ぬぐいがあっという間にぱりっと乾いてしまう、そういう気持ちのいい昼だった。


 だからこそ、というべきなのか。私はこの数日胸のすみに小さくつかえていたものを、うまく言葉にできずにいた。


 アンとウンのことだ。


 三日前の夜更けから、あの子たちの様子がおかしい。鳥居の前にどっしりと構えたまま、山の奥へ向かって低く長くうなり続けている。ウンはもともと無愛想で、来る人来る人を値踏みするみたいに見上げる、警戒がお役目みたいな子だ。だからウンがうなるのは、まあ、そういうこともある。


 けれどアンまでが唸っているのが、いけなかった。


 アンは愛想がいい。参道を上ってくるお客さんに、まるで「いらっしゃいませ」とでも言うみたいに、ぱたぱたと石の尾を振ってみせる、うちの社の看板みたいな子だ。そのアンがこの三日笑わない。牙をのぞかせて、山の奥をにらんでいる。


「アン、ウン、……なにか、来ますか?」


 朝、社務所を出るときに、私はそっと二頭の首すじをなでて、そう尋ねた。アンはちらりと私を見て、それからまた山のほうへ顔を戻した。答えてはくれなかった。ただいつもより一段体が固かった。


 なにか、来る。


 そう言われている気がして、けれどその「なにか」の正体がわからなくて、私は胸のつかえを飲みこんだまま、今日という日を始めてしまった。


 ——今日は、社を離れる日だった。


 氏子さんが増えてから、社務所はとみに忙しくなった。破門なんて怖くない、うちの神様はここにおられる、と胸を張ってくれる氏子さんが、門前町だけでなく領のあちこちから名乗り出てくれるようになって、それはとてもありがたいことなのだけれど、そのぶんお守りの受け渡しや、新しく籍を置きたいという相談ごとが、山の上の社務所だけでは回りきらなくなっていた。


 それで十日にいちどは私が門前町のふもとまで降りて、茶屋の一角を借りて、相談ごとを受けることにしている。町のみんなにとっても、そのほうが上り下りをせずに済む。


「聖女さま、こっちこっち」


 茶屋の縁台で、マーサさんが手招きをした。門前町の女衆をたばねる、うちの氏子総代さんだ。先だっての宴ではしたたかに酔って、私にとんでもない恋の手ほどきをしてくれた人でもある。……あのことは思い出すと、いまでも耳の裏が熱くなるので、考えないことにしている。


「今日はね、麓のむこうの村から四人も来てるよ。籍を置きたいってさ。ほらあんたのお守り、あれを握ってると畑仕事の腰が軽いって評判でね」


「腰、ですか」


「そうそう。……ねえ聖女さま、あたしゃ前から思ってたんだけどさ。銅貨五枚ってのはいくらなんでも安すぎやしないかい? これだけ効くんだ、もうちょいもらったって、罰は当たらないよ」


「だめです」


 私はきっぱりと首を横に振った。


「お守りが一食分より高くなったら、いけません。お腹をすかせた人が、祈りとパンとどっちかを選ばなきゃいけなくなったら……そんなの、いちばんいけないことです」


「はいはい、また始まった」


 マーサさんが、けらけらと笑った。私が値づけの話になると、みんなすぐにこの顔をする。お守りはそのまちの一食分。それが私のゆずれない一線だった。


 茶屋の縁台に腰かけて、ひとりまたひとりと氏子さんの相談を受けた。畑の村の四人はみんな日に焼けた、やさしい顔をしていた。名前を帳面に書きつけて、真新しいお守りを渡すと、うれしそうに両手で押しいただいてくれた。


 こういう時間が、私は好きだ。


 王都の大聖堂にいたころ、私は自分の祈りがどこの誰の役に立っているのか、ついぞ知らないままだった。ただ祈って、ただ吸い上げられて、それでおしまいだった。けれどここでは私のお守りを握る手の、その皮の厚さや爪のあいだの土まで見える。誰のどんな一日のために祈るのか、その顔が見える。


 それが、どれだけありがたいことか。


 ——だから、油断していたのだと思う。


 空は高く風は乾いて、氏子さんの顔はやさしくて。社はあの高い山の上でいつもどおり静かに立っているものだと、私は疑いもしていなかった。


 社務所の留守番は、ハンナさんに頼んであった。門前町の、気立てのいいお母さんだ。ご亭主が石工で日中は町を離れているから、幼い娘のニナちゃんを連れて、よく社を手伝いに来てくれる。ニナちゃんは三つになったばかりで、狛犬のアンとウンが大好きで、境内で一日じゅうあの子たちの脚のあいだをちょろちょろと遊びまわっている。


 今朝もニナちゃんは鳥居のところで、アンの石の尾に小さな手をのせて、なにか話しかけていた。


「アンちゃん、こわいお顔」


 そう言って、ニナちゃんは首をかしげていた。アンは、答えなかった。ただ山の奥をにらんでいた。


 ——あのこわいお顔の意味を、私はもっと早く汲むべきだったのだ。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

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 ——お代は、銅貨五枚。……ではなく、ブックマークをひとつ、いただけたらうれしいです。

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