わたしたちの聖女さま(四) よりによって、そこへ本人が。——その夜、狛犬が牙をむいた
だめだ。ここはいったん逃げよう。
私はそう決めておかみさんたちの輪から、そそくさと抜け出した。頭を冷やさなくては。こんな真っ赤な顔のままでは、いけない。落ちついていつものなんてことない自分に、戻らなくては——。
そう思って顔を上げたその目の前に。
ジークさまが、立っていた。
「ひえっ」
我ながらずいぶんとひどい声が出た。
「なんだ、その声は」
ジークさまは、けげんそうに眉を寄せた。ちょうど、酌のお礼にでも来たのだろう。手には、空になった湯呑みを持っている。ごく当たり前の顔でそこに立っている。
けれど私のほうはそれどころではなかった。
顔が。見られない。ジークさまの、お顔が。
だっていまたった今、数えてしまったばかりなのだ。この方のお顔が整っていることも。この方が辺境伯さまであることも。この方が私のわがままをこれまでぜんぶ、ぜんぶ聞いてくださってきたことも。ぜんぶ、ぜんぶついさっき指を折って数えてしまったばかりで——。
「……おい」
「は、はい!」
「顔が、赤い」
「あ、赤くないです!」
「いや、赤い」
ジークさまがす、と片手をのばしてきた。私の額を、確かめようとするように。大きなあたたかいあの手が。ゆっくりと、近づいてくる。
「熱でもあるのか。まだ、本調子では——」
「だ、だいじょうぶですっ!」
私はびくん、とうしろに飛びのいた。まるで、猫みたいに。自分でもびっくりするくらい、いきおいよく。
ジークさまの手が、行き場をなくして宙で止まる。
しん、となった。
ジークさまはのばした手と飛びのいた私を、交互に見て。それから心の底からわけが分からない、という顔でぽつりと言った。
「……なにを、そんなに」
「ななんでもないですっ。ちょっと、その涼んでこようかと! 夜風に! はい!」
私はしどろもどろにそう言ってぺこぺこと頭を下げると、逃げるようにその場を離れた。背中にジークさまの、ぽかんとした視線が刺さっているのが分かる。
そしてそのうしろのほうで。
こらえにこらえていた、おかみさんたちの笑いが、どっ、とはじけるのが聞こえた。マーサさんのひときわ高い笑い声も、まじっている。
……もう。もう、いや。みんな、ひどい。
私は火照った顔を、両手でぱたぱたとあおぎながら。人けのない社の裏手まで一気に駆けていった。
* * *
社の裏手の、ひんやりとした夜風のなかで。
私はしばらく火照った頬を冷ましていた。心の臓はまだ少しはやい。だめだ。あのお顔を思い浮かべると、またじわっと熱がもどってくる。……いったい私はどうしてしまったのだろう。
——酔っぱらいの、たわごとのはずなのに。
顔だの金だの甘やかしてくれるだの。あんなもの絵に描いた夢物語のはず、なのに。どうして、ぜんぶあの人に当てはまってしまうのだろう。そしてどうしてそれに気づいただけで、こんなにも胸がうるさいのだろう。
わからない。ぜんぜん、わからない。
わからないけれど。
ひとつだけ、分かることがあった。今日は朝目がさめてから、ずっといいことばかりの一日だったということ。教会に、聖女ではないと言われて。そのすぐあとに、みんなに私たちの聖女さまだと言ってもらえて。命を拾ったおじいさんに、お酌をしてもらって。そして——おかみさんたちに、からかわれてジークさまの前で猫みたいに飛びのいて。
……ふふ。
思い出したらなんだかおかしくなってきた。教会に捨てられた日が、こんなにもあたたかい。こんな一日が、あっていいのかしら。
私は夜空を見上げてひとつ深呼吸をした。ひんやりとした空気が、火照った胸にすう、としみこんでいく。
さあ。そろそろ、頬の熱もひいた。宴に、戻ろう。今度こそ、平気な顔で。何食わぬ顔で——。
と。
そのとき、だった。
私の、すぐそばで。ずっと社の柱にもたれてむっつりしていたはずの、狛犬のウンが。ふいに、すっくと立ち上がった。
つづいて参道のほうから、アンの低いうなり声。
「……ウン? どうしたんですか」
二頭の狛犬が、そろって山のいちばん奥のほうを——暗い、木立のその向こうをじっと見すえていた。喉の奥からぐるる、と低い長いうなり声がもれている。営業スマイルの得意なアンまでもが、いまは牙をむいて。
あんなにあたたかかった宴の夜。
その、いちばん奥のほうで、なにか暗いものが、こちらをうかがっている。——そんな、気がした。
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