【幕間】残る者
その一枚をアンブロスは、もう何度読み返したか分からなかった。
『鈴の社は異教なり。これに参拝する者は、光神への背信であり、破門に値する』。
大司教ゲルニウスの名で、大聖堂から降ってきた布告だった。写しは領都エルデの広場にも、でかでかと貼り出されている。エルデ教会の司教であるアンブロスの手もとには、そのおおもとの一通が、うやうやしく届けられていた。従いなさい、という命令とともに。
燭台の火が羊皮紙の上でかすかに揺れた。
——脅し、だな。
アンブロスは、そう思った。長く生きて、光神につかえてきた。祈りとは、こわばった心をほどくものだと信じてきた。おびえる者に手を差しのべ、寄る辺のない者に「あなたは、ひとりではない」と告げる——それが、光神教の光ではなかったか。
なのに、この布告は。人の心のいちばん柔らかいところを、人質に取っている。信仰から外してやろうか、と。帰る場所を取り上げてやろうか、と。
これは信仰ではない。
アンブロスは静かに布告を伏せた。伏せたところで命令が消えるわけでは、ないのだが。
窓の外へ、目をやる。エルデの町の向こう、辺境伯の屋敷のそのまた裏手の山に、ひとすじ細い灯りが見えた。夜でもあの山には、参拝の人の絶えることがないと聞く。
鈴の社。
追放された、燭台級の聖女。教会が「使いものにならぬ」と、北の果てへ捨てた娘が、そこで妙な社を開いた。銅貨五枚のお守りを売り、祈りを吸い上げるのではなく、返すのだという。——はじめは片腹痛い異端の遊びだと、アンブロスも思っていた。
だが、この頃は。エルデの信徒までもが、少しずつあの山へ流れていく。とがめる気には、なれなかった。あそこへ登った者は、みな帰り道の顔が明るいのだ。
……皮肉なものだ。
私が、この生涯をかけて掲げたかった光は。教会にではなく教会が異端と呼ぶ、あの山のほうにあるのかもしれぬ。
遠い日のことを、思い出す。若かったころ。アンブロスもまた、大司教の座をひとりの男と争ったことがあった。ゲルニウス。祈りよりも、帳簿と人事に長けた男だった。そして、敗れた。この北の辺境へ送られたのは、体のいい厄介払いだったのだろう。
恨みは、とうに枯れた。この地で領民とともに老いるのも、悪くない生涯だと思っていた。
——だが、あの男は。ついに、こんなものを。
布告の上に置いた手を、アンブロスはそっと握りしめた。逆らえば、潰される。辺境の一司教になど、大聖堂と正面から事をかまえる力は、ない。分かっている。分かっているからこそ、この手はこんなにも重い。
* * *
扉が、静かに叩かれた。
「司教さま。……ノルデン辺境伯さまが、おいでにございます」
従者の声がめずらしく上ずっていた。無理もない。この地の民にとって、氷の当主はいまだに半ば怪談のなかの人だ。
アンブロスが立ち上がるよりも早く、扉は開いた。
入ってきたのは背の高い若い男だった。黒い外套。手袋をした手。そして真冬の湖のような静かな目。うわさに聞く凍てつきの呪いを負った領主——ジークヴァルド・ノルデン、その人だった。
「夜分に、すまん」低い声だった。「司教どのと、話がしたくてな」
「これはノルデン卿」アンブロスは、おだやかに頭を下げた。「むさくるしい所ですが、どうぞ。いまあたたかい茶でもお淹れいたしましょう」
「いい。長居はせん」
ジークはすすめられた椅子には座らず、机の上の一枚に目を落とした。伏せられた、あの布告に。
「その、おふれのことだ」
アンブロスの胸が、ひとつ鳴った。
「読んだか」ジークは、あごで布告を示した。「うちの領の広場に、貴殿がたの大司教どのが、勝手に貼り出していったものだ。——司教どの。貴殿はあれをどう思う」
試されている、とアンブロスは思った。この若い領主はおそらく答えしだいで私をどう扱うかを、決めるつもりでいる。
嘘は、つけなかった。この歳になって光神の前で嘘だけは。
「……あれは信仰ではございません」アンブロスは、静かに言った。「祈りは、人を救うもの。人を脅すための、刃ではない。あの布告は教えの名を借りたただの脅しです。——私は、恥じております」
ジークの目がわずかに動いた。
「ではなぜ破らん」
「破れば潰されるからです」アンブロスは、正直に答えた。「辺境の老いた一司教に大聖堂と刃を交える力は、ございませぬ。……情けない話ですが」
しばらく、沈黙があった。ジークはその静かな目で、じっとアンブロスを見ていた。値踏みするようなけれどどこか疲れた老人をいたわるような色も、そこにはあった。
「司教どの」やがて、ジークは言った。「俺は領内の教会を、ふたつに分けることにした。うちの民を脅す者には、役目を返上して王都へ帰ってもらう。——だが民とともにある者は、残ればいい」
「……卿は」アンブロスは、思わず問うていた。「この私に残れとおっしゃるのですか。異端の社を黙って見過ごすこの地に」
「異端かどうかは俺の知ったことではない」ジークは、言い切った。「俺が見ているのは、うちの民が救われているかいないか。それだけだ。——あの山の社は、民を救っている。貴殿のこの教会も、長いことこの町の者を救ってきたのだろう。ちがうか?」
アンブロスは言葉を失った。
この若さで。この氷のような静けさの底に、なんという熱いものを飼っているのか。教会が位階だの光の量だの、寄進の額だので人を測っているあいだ。この男はただひとつのことだけを、見ている。——目の前の民が救われているかどうか。
「……ありがたいお話です」ようやく、アンブロスはしぼり出した。「ですが、卿。私は表立っては大聖堂に逆らえませぬ。あの布告をこの町で撤回して回ることも、できませぬ。それでも、よろしいのですか」
「かまわん」ジークは、かすかに口の端を上げた。「貴殿は貴殿にできることを、すればいい。去っていく信徒を、追わずにいてやること。残る者を、あたたかく迎えてやること。——それだけで、じゅうぶんだ」
そしてジークは伏せられた布告を指先で、とん、と叩いた。
「この紙きれよりも、貴殿の一日一日のほうが、よほど貴殿がたの光神とやらの教えに近い。……俺は、そう思うがな」
外套をひるがえして、氷の当主は来たときと同じように、音もなく去っていった。
あとには燭台の火のかすかな音だけが、残った。
アンブロスはしばらく動けなかった。それから伏せていた布告を、もう一度表に返した。ゲルニウスの名がそこにある。
いつか。
——いつかあの男の作りあげた、この歪みが白日のもとにさらされる日が来るだろうか。そのとき私のような老いぼれに、まだなにか、できることが残っているだろうか。
分からない。分からないが。
アンブロスは窓の外のあの細い灯りを、もう一度見た。追放された聖女の、小さな社の灯り。教会が捨てたもののなかに、たしかに息づいている、ほんものの光。
——私はこの地に残ろう。
声には出さず、老いた司教は静かにそう決めた。胸のうちで久しく忘れていた祈りが、ひとつ、ともった気がした。
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