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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅


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第9話「期限」

あと、二週間か。


レナートは寝台の上で天井を見ていた。


窓の外はまだ暗い。夜明け前の、空気が最も冷える時間帯。銀鈴亭の二階、いつもの部屋。壁の向こうにマルコがいる。


昨夜、マルコに告げられた言葉が、まだ頭の中にある。


遊歴の期限。一年。それが終わる。


王都に戻らなければならない。


九ヶ月を各地で過ごした。残り三ヶ月でクレーネに辿り着き、この宿に泊まった。そこから二ヶ月半が経った。


残りは、二週間。


レナートは右手を持ち上げ、天井に翳した。


この手で、あの女将の腕を掴んだことがある。雨の日、脚立から落ちかけた体を。


この手の指先が、焼き菓子の皿の上で、あの人の指に触れたことがある。


どちらも、客としての距離を超えていた。


わかっている。


わかっていて、ここにいる。


告げるべきか。


自分が何者か。名前の先にあるもの。姓を名乗らなかった理由。


告げれば——俺は客ではなくなる。旅の青年ではなくなる。王子として扱われる。


あの人が、それを望むか。


シルヴィアはいつも、こちらを客として扱った。丁寧に、しかし線を引いて。その線の内側で、少しずつ距離が縮まった。名前を呼び合い、閉店後の食堂で茶を飲み、互いの過去の断片を交わした。


その全てが、俺を「レナート」としか知らない前提の上に成り立っている。


身分を明かせば、土台ごと壊れる。


明かさなければ、嘘をついたまま去ることになる。


どちらも——あの人に対して、不誠実だ。


レナートは手を下ろし、目を閉じた。


答えは出なかった。


朝。


レナートが食堂に降りると、シルヴィアはすでに厨房にいた。


鍋から湯気が立ち、パンの焼ける匂いが食堂に漂っている。


「おはようございます」


シルヴィアの声。いつも通りの、穏やかな丁寧語。


「ああ」


窓辺の席に座る。


朝食が運ばれてきた。


卵の焼き加減が、いつもと違った。


黄身が半熟。白身の縁がほんのわずかに焦げている。レナートが最も好む焼き方だった。


最初に泊まった日の卵は、固焼きだった。二日目は普通。三日目に半熟を出したとき、レナートが一口目の間を長く取ったのだろう。それから——ずっと、この焼き加減になっていた。


一度も「こう焼いてくれ」と言ったことはない。


シルヴィアが、見て、覚えたのだ。


スプーンを取った。卵を一口。パンを一切れ。


美味かった。いつも通り。いつも通りの美味さが、今朝は喉の奥で詰まった。


あと二週間。この朝食を、あと何回食べられる。


数えたくなかった。数えれば、残りの朝食が全て「最後に近い一回」になってしまう。


黙って食べた。全て平らげた。


日が経った。


残りの日々は、驚くほど静かだった。


朝、レナートが食堂に降りる。シルヴィアが朝食を出す。昼は町を歩くか、部屋で本を読む。夕方、食堂に戻る。夕食を食べる。閉店後、食堂に残る。


変わったことは何もない。


だが、一つずつが変わっていた。


夕食の皿を下げるとき、シルヴィアの手が止まる回数が増えた。レナートの皿を見つめる時間が、ほんの少しだけ長くなっていた。


レナートは閉店後の片付けを手伝うようになっていた。いつからかは覚えていない。最初はテーブルの上の食器をカウンターまで運んだだけだった。それがいつの間にか、椅子を戻し、テーブルを拭き、ランプの芯を確かめるところまで広がっていた。


シルヴィアは最初、「お客様にそんなことを」と言いかけた。だが言葉が途中で止まり、それきり何も言わなかった。


二人で片付ける食堂は、一人のときより早く終わった。


当然だ。手が二つ増えたのだから。


だが、早く終わった分だけ、閉店後の時間が長くなった。


ランプの灯りが一つだけ残る食堂で、シルヴィアが帳簿をつけ、レナートが窓辺の席で茶を飲む。


会話は多くなかった。だが、沈黙の質が変わっていた。


以前の沈黙は「互いに干渉しない」静けさだった。今の沈黙は「互いがいることを知っている」静けさだった。


気まずさはない。居心地が悪いのでもない。


ただ——安心、と呼ぶしかない何かが、食堂の空気に溶けていた。


最終日前夜。


夕食は鶏のハーブ焼きだった。


レナートが初めて「美味かった」と声に出した夜と、同じ料理だった。


シルヴィアが意図して選んだのか、偶然なのかはわからない。


レナートは一口目で目を閉じた。


いつもより長い間だった。


味を覚えておこうとしているのだと、自分で気づいた。


全て平らげた。


マルコも食事を終え、「先に休みます」と言って二階に上がった。その足取りが、いつもよりわずかに速かったことに、レナートは気づいていた。


食堂に二人。


シルヴィアがテーブルを拭いている。レナートは窓辺の席から動かなかった。


皿はもう下げた。茶も飲み終えた。残る理由はない。


だが立ち上がれなかった。


「明日、発つ」


声が出た。


シルヴィアの手が止まった。


布巾を持ったまま、テーブルの上で。


一秒。二秒。


手が動いた。テーブルを拭く動作が再開する。


「そうですか」


声は平坦だった。


いつもの声だ。客が出発を告げたとき、宿の女将が返す声。何度も聞いたことがあるだろう言葉。何度も言ったことがあるだろう声。


シルヴィアはテーブルを拭き終え、カウンターに戻った。


布巾を絞る。帳簿を棚から出す。いつもの閉店作業。


その手が、銀の鈴に伸びた。


毎晩磨いている鈴。扉の金具に掛け直す前に、布巾で拭く。小さな習慣。


鈴に触れた指が、震えていた。


かすかな震え。布巾越しでも見える程度の。


シルヴィアはそれを隠さなかった。隠せなかったのかもしれない。


レナートはそれを見た。


窓辺の席から。食堂の反対側、カウンターの内側で銀の鈴を磨くシルヴィアの手を。


立ち上がるべきだった。何か言うべきだった。


だが言葉が出なかった。何を言えば正しいのか、わからなかった。


「おやすみなさい」


シルヴィアの声が、食堂に落ちた。


いつもの声。いつもの言葉。


「……ああ」


レナートは立ち上がった。


窓辺の席を出て、階段に向かう。


足が重い。一段ずつが遠い。


振り返りたかった。


振り返って、あの震えている手に何か言いたかった。


だが——今の自分には、その資格がない。名前しか渡していない人間が、何を言えるというのか。


階段を上がった。


廊下の突き当たり、マルコの部屋の扉は閉まっていた。


自分の部屋に入り、扉を閉めた。


暗闇の中で、寝台に腰を下ろした。


明日の朝、この宿を出る。


銀の鈴が鳴る。扉が閉まる。それで終わりだ。


——それでいいのか。


問いが浮かんだ。


答えは、もう決まっていた。


いいわけがない。



レヴィアンス王国、ハイゼンベルト伯爵家。


夜の応接間。


リゼットはソファの端に座り、向かいのグレンを見つめていた。


今日、年次の領主間親睦会の幹事を、別の家が引き受けることが正式に決まった。ハイゼンベルト家から幹事役を交代するという書面が、二つの家の連名で届いた。体裁は「ハイゼンベルト家のご負担を軽減するため」と書かれていたが、意味は明白だった。


任せられない、ということだ。


グレンはソファの背にもたれ、天井を見ていた。表情は読めなかった。


リゼットの指が、スカートの布を掴んだ。


「兄さま」


声が小さかった。


「わたしの……わたしのせいなの?」


グレンの視線が天井から降りた。


リゼットを見た。


「違う」


即答だった。声に迷いはなかった。


「シルヴィアが勝手に出て行ったからだ。あの人がいなくなったから、こうなっている。俺たちのせいじゃない」


その言葉を、応接間の隅に立つ使用人が聞いていた。


老執事だった。この屋敷に三十年仕えている男。シルヴィアが婚約者として出入りしていた三年間、彼女の実務を最も間近で見ていた人間の一人。


老執事は目を伏せた。


何も言わなかった。言う立場にない。


だがその伏せた目の中に、以前はなかった種類の感情が浮かんでいた。


リゼットはグレンの言葉を聞いて、膝の上の手を握りしめたまま黙った。


兄の言葉を信じたかった。信じたかったが——応接間の空気が、それを許さなかった。


グレンは立ち上がった。


「心配するな。まだ手はある」


三度目の、同じ言葉だった。


だが今度は、リゼットもその言葉の空洞に気づいていた。


グレンが応接間を出ていく。


リゼットは一人、ソファに残った。


テーブルの上に、幹事交代の書面が置かれている。


「ハイゼンベルト家のご負担を軽減するため」。


その一行が、リゼットの目に焼きついた。



クレーネ。銀鈴亭。夜明け前。


レナートは荷造りを終えていた。


部屋に私物は何も残っていない。旅の荷袋一つ。来たときと同じだ。


窓の外が白み始めている。


扉を開けた。


廊下に、マルコがいた。すでに身支度を整え、荷を背負っている。


目が合った。


マルコは何も言わなかった。ただ小さく頷いた。


二人で階段を降りる。


食堂には、もう灯りがついていた。


シルヴィアが厨房にいた。鍋の湯気。パンの匂い。


朝食が用意されていた。


レナートは窓辺の席に座った。最後の朝食。


シルヴィアが皿を運んできた。


卵の焼き加減は、いつも通りだった。半熟。白身の縁がわずかに焦げた、あの焼き方。


レナートはフォークを取った。


全て食べた。一欠片も残さなかった。


皿を見つめた。空の皿。毎朝見てきた光景。


立ち上がった。


食堂の入口に向かう。マルコが先に外に出て、荷を確認している。


レナートは扉の前で、足を止めた。


振り返った。


シルヴィアはカウンターの内側に立っていた。いつもの場所。帳簿の傍。銀の鈴の近く。


「シルヴィア」


名前を呼んだ。


用件はなかった。伝えたいことはある。だが今言えることは、名前だけだった。


用件なしに、ただ名前だけを呼ぶ。そんなことをしたのは、初めてだった。


シルヴィアの目が、まっすぐこちらを向いた。

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